ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)
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初代モンターギュ侯ジョン・ネヴィル(John Neville, 1st Marquess of Montagu, 1431年 - 1471年4月14日)は、薔薇戦争期のヨーク派のメンバーの1人で、エドワード4世統治初期のイングランド北部でのランカスター派掃討で有名である。
ジョン・ネヴィル John Neville | |
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初代モンターギュ侯 | |
在位 | 1470年 - 1471年 |
出生 |
1431年 |
死去 |
1471年4月14日 |
配偶者 | イサベル・インゴールスロップ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ネヴィル家 |
父親 | 第5代ソールズベリー伯リチャード・ネヴィル |
母親 | アリス・モンタキュート |
生涯
編集ジョン・ネヴィルはソールズベリー伯リチャード・ネヴィルとソールズベリー女伯アリス・モンタキュート(Alice Montacute)の息子で、ウォリック伯リチャード・ネヴィルの弟として生まれた。
彼は1459年9月のブロア・ヒースの戦いでランカスター派に捕えられて、収監された。1460年7月のノーサンプトンの戦いでのヨーク派の勝利によって彼は解放されたが、1461年2月の第二次セント・オールバーンズの戦いで再び捕えられた。
この2回目の投獄から解放された後、彼はイングランド北部のヨーク派軍を指揮して、1465年のヘッジレイ・ムーアの戦いとヘクサムの戦いでランカスター派を破った。
ランカスター派掃討の褒美として、ジョン・ネヴィルは新設のノーサンバランド伯爵に列せられた。この称号は長らくパーシー家(Percy family)に受け継がれていたが、ランカスター派に組したパーシー家は、私権剥奪状態にあったのでジョン・ネヴィルのものとなった。しかし、1470年にヘンリー・パーシーが復権すると、ジョン・ネヴィルは伯爵位と多くの官位を元のパーシーに返さなければならなくなった。
この代償として彼は新設のモンターギュ侯爵(Marquess of Montagu)に列せられたが、爵位に見合うような所領はなかった。これを不服としたジョン・ネヴィルはエドワード4世に敵対し、ヘンリー6世復活のために兄のウォリック伯に合流した。ジョン・ネヴィルは北部で高位に復帰したが、バーネットの戦いで戦死した。
子女
編集彼はイサベル・インゴールスロップ(Isabel Ingoldsthorpe, 1441年 - ?)と結婚して7人の子供をもうけた。
- ジョージ・ネヴィル(1457年頃 - 1483年) - ベッドフォード公、子孫無し。
- ジョン・ネヴィル(John Neville) - 子孫無く1483年以前に死亡。
- イサベラ・ネヴィル(Isabella Neville) - ウィリアム・ハドルストン卿(Sir William Huddleston)と結婚し、後にウィリアム・スマイス卿(Sir William Smythe)と結婚。
- エリザベス・ネヴィル(Elizabeth Neville) - ヘンリー・ウェントワース卿(Sir Henry Wentworth)と結婚。
- ルーシー・ネヴィル(Lucy Neville) - アントニー・ブラウン卿(Sir Anthony Browne)と結婚。
- アン・ネヴィル(Ann Neville) - ウィリアム・ストナー卿(Sir William Stonor)と結婚した。
- マーガレット・ネヴィル(Margaret Neville) - ジョン・モーティマー卿(Sir John Mortimer)と結婚、初代サフォーク公チャールズ・ブランドンと再婚した(1507年解消)。
イングランドの爵位 | ||
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爵位創設 | モンターギュ侯爵 1470年 - 1471年 |
廃絶 |
ノーサンバランド伯爵 1465年 - 1470年 |
爵位返還 | |
モンターギュ男爵 1461年 – 1470年 |