ジョン・ステュアート=ウォートリー=マッケンジー (第2代ウォーンクリフ男爵)
第2代ウォーンクリフ男爵ジョン・ステュアート=ウォートリー=マッケンジー(英語: John Stuart-Wortley-Mackenzie, 2nd Baron Wharncliffe,FRS、1801年4月23日 - 1855年10月22日)は、イギリスの貴族。
第2代ウォーンクリフ男爵 ジョン・ステュアート=ウォートリー=マッケンジー FRS | |
---|---|
1840年頃 (ヒル&アダムソン・スタジオ撮影) | |
陸軍・植民地事務次官 | |
任期 1834年12月20日 – 1835年1月27日 | |
君主 | ウィリアム4世 |
首相 | サー・ロバート・ピール |
前任者 | サー・ジョージ・グレイ |
後任者 | ウィリアム・グラッドストン |
個人情報 | |
生誕 | 1801年4月20日 |
死没 | 1855年10月22日(54歳没) |
国籍 | イギリス |
政党 | トーリー |
配偶者 | ジョージアナ・ライダー(1884年没) |
生涯
編集ピール派の政治家である初代ウォーンクリフ男爵とその妻エリザベス・クライトン(Elizabeth Crichton、初代アーン伯爵の娘)との長男として生まれた[1]。ハーロー校を経て、オックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジに学んだ[2]。
1823年から1830年にかけてボシニー選挙区選出の庶民院議員として議席を占めた[1][2]。その後も1830年から翌年にかけてはパース・バラ選挙区、1841年から1845年までウェスト・ライディング選挙区から当選して議席を維持している[1][2]。議会内では穏健保守のカニング派の一員として行動した。
第1次ウェリントン公爵内閣ではインド庁次官に任じられた[1]。就任にあたっては父や友人に相談してまわったのち、「東インド会社の勅許状更新時に政府が口出ししないこと」や「インドにおける自由主義政策を変更しない」などの注文をつけている[2]。第一次ピール内閣が発足すると陸軍・植民地事務次官のポストに内定したが、年明け早々の総選挙戦に惜敗したせいで実務を執ることはできなかった[注釈 1][2]。そのため、穴埋め的に大蔵省の官職就任を打診されたが「給料目当ての役職欲しさにしか見えない」との理由から辞退している[2]。その後、1845年に父の死去に伴ってウォーンクリフ男爵位を相続した[1][4][5]。
1855年に自邸ウォートリー・ホールで肺の病のために死去した[4][6]。爵位は長男エドワードが継承、彼がウォーンクリフ伯爵を授けられることとなる[1][5]。
人物・評価
編集- 1829年に王立協会フェロー(FRS)に選ばれた[4][7]。
- 政治的には穏健な保守派として振る舞ったほか、農業分野に興味関心を抱いていたという[4]。
- 「(首相の)初代ウェリントン公爵と接する際も言い訳をしない」とピールから好評価されたが、彼自身はピールの下で働くのは非常に辛いと友人に愚痴をこぼしている[2]。
- ハリエット・アーバスノット女史(ウェリントン公の親友)からは毛嫌いされており、その政治姿勢を「全く見事なカニング派(rank Canningites)」とこき下ろされている[2]。
家族
編集1825年12月12日にジョージアナ・ライダー(Georgiana Ryder、1804年4月23日 - 1884年8月22日、初代ハロビー伯爵の三女)と結婚して、3男2女をもうけた[1][4]。ウォーンクリフは夫人に熱烈に恋していた(desperately in love)が、ジョージアナ夫人の方は少しも彼を好いていなかったという[2]。
- (長男)エドワード・モンタギュー・ステュアート・グレンヴィル(1827年12月15日 - 1899年5月13日)- 初代ウォーンクリフ伯爵。
- (次男)フランシス・ダドリー(1829年7月23日 - 1893年10月21日)
- (三男)ジェームズ・フレデリック(1833年1月16日 - 1870年11月27日)
- (長女)メアリー・カロライン(1826年10月17日 - 1896年4月2日)
- (次女)シシリー・スーザン(1835年10月14日 - 1915年5月2日)
著作
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g Heraldic Media Limited. “Wharncliffe, Baron (UK, 1826)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Fisher, David (2009). "STUART WORTLEY, John (1801-1855), of 15 Curzon Street, Mdx.". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年2月21日閲覧。
- ^ G. Le G. Norgate; revised by H. C. G. Matthew. "Wortley, James Archibald Stuart- [formerly James Archibald Stuart-Wortley-Mackenzie], first Baron Wharncliffe". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/26731。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ a b c d e Cokayne, G. E., ed (1898). Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct, or dormant (U to Z, Appendix, Corrigenda, Occurrences after 1 January 1898, and General Index to Notes, &c.). 8 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 123
- ^ a b Arthur G.M. Hesilrige (1921). Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc. Wellesley College Library. London, Dean. p. 927
- ^ [DEATH OF LORD WHARNCLIFFE. The Morning Post (London, England), Tuesday, 23 October 1855; pg. 5; Issue 25523.]
- ^ "Stuart-Wortley; John (1801 - 1855); 2nd Baron Wharncliffe". Record (英語). The Royal Society. 2021年2月20日閲覧。
外部リンク
編集- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Wharncliffe
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会 | ||
---|---|---|
先代 サー・コンプトン・ドムヴィル ジョン・ウォード |
庶民院議員 ボシニー選挙区選出 1823年 - 1830年 同職:サー・コンプトン・ドムヴィル 1823年 - 1826年 E.R.ターノ 1826年 - 1830年 |
次代 E.R.ターノ チャールズ・ステュアート= ウォートリー=マッケンジー |
先代 H.P.リンジー |
庶民院議員 パース・バラ選挙区選出 1830–1831 |
次代 フランシス・ジェフリー |
先代 E.R.ターノ チャールズ・ステュアート= ウォートリー=マッケンジー |
庶民院議員 ボシニー選挙区選出 1831年 - 1832年 同職:E.R.ターノ |
選挙区廃止 |
先代 モーペス子爵 サー・ジョージ・ ストリックランド |
庶民院議員 ウェスト・ライディング選挙区選出 1841年 - 1845年 同職:サー・エドマンド・ベケット |
次代 サー・エドマンド・ベケット モーペス子爵 |
公職 | ||
先代 ジョージ・バンクス |
インド庁次官 1830年 |
次代 サンドン子爵 |
先代 サー・ジョージ・グレイ |
陸軍・植民地事務次官 1834年 - 1835年 |
次代 ウィリアム・グラッドストン |
イギリスの爵位 | ||
先代 ジェームズ・ ステュアート=ウォートリー |
ウォーンクリフ男爵 1845年 - 1855年 |
次代 エドワード・モンタギュー= ステュアート=ウォートリー=マッケンジー |