ジェイムス・コナント
アメリカ合衆国の化学者 (1893-1978)
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ジェイムス・ブライアント・コナント (英語: James Bryant Conant 、1893年3月26日 - 1978年2月11日) は、アメリカ合衆国の化学者、教育者、科学行政官、外交官。ジェームス・コナント、ジェイムズ・コナント、ジェームズ・コナントなどともカタカナ表記される。
James Conant ジェイムス・コナント | |
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ジェイムス・コナント(1953) | |
生誕 |
1893年3月26日 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン |
死没 |
1978年2月11日 (84歳没) アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州ハノーバー |
国籍 | アメリカ合衆国 |
研究分野 | 有機化学 |
出身校 | ハーバード大学 |
博士論文 | A study of certain cyclopropane derivatives; the electromotive force of sodium amalgam concentration cells. (1916) |
博士課程 指導教員 | セオドア・リチャーズ |
博士課程 指導学生 | ルイス・フィーザー |
主な受賞歴 | プリーストリー賞(1944) |
プロジェクト:人物伝 |
経歴
編集マサチューセッツ州ボストン市ドーチェスター地区(Dorchester, Massachusetts)生まれ。ハーバード大学で化学を専攻、1917年博士号を取得した[1]。1917年-1918年、アメリカ陸軍で毒ガスなど化学兵器関係の業務に従事。第一次世界大戦後ハーバード大学に赴任し、1919年から助教授、1928年から教授、1933年-1953年学長を歴任した。1941年-1946年、アメリカ国防研究委員会(NDRC)委員長を務め、科学研究開発局長ヴァネヴァー・ブッシュに協力。マンハッタン計画では政策決定過程に関与した[2][3]。 1953年-1955年、対占領ドイツ高等弁務官、1955年-1957年、在西ドイツ特命全権大使[4][1]。1934年アメリカ化学者協会ゴールドメダル、1943年ベンジャミン・フランクリン・メダル、1944年プリーストリー賞を受賞。
退任後は『アメリカ高校教育の現状』を執筆して教育問題に係るようになった。1961年に初来日、東京や大阪で教育問題について講演を行い、日本の教育関係者と意見交換を行った。1978年、ニューハンプシャー州ハノーバーの療養先で死去。84歳[5]。
脚注
編集- ^ a b 原子爆弾開発に関するブッシュ=コナント・ファイル国立国会図書館
- ^ コナント【James Bryant Conant】1893‐1978世界大百科事典第2版
- ^ コナント【James Bryant Conant】 大辞林第三版
- ^ コナント Conant,James Bryant ブリタニカ国際大百科事典
- ^ 訃報欄 ジャームズ・ブライアント・コナント氏(ハーバート大学名誉総長、元駐西ドイツ米大使)『朝日新聞』1978年(昭和53年)2月4日朝刊、13版、19面