シリンダリモンゴル語: Širindari、生没年不詳)は、コンギラト部出身の女性で、モンゴル帝国第6代皇帝テムルの皇后(ハトゥン)。

元史』などの漢文史料では失憐答里(shīliándālǐ)、あるいは実憐答里(shíliándālǐ)と記される。

概要

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出自

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『元史』巻114列伝1后妃伝によると、コンギラト部族長でモンゴル帝国の創始者チンギス・カンに仕えたデイ・セチェンの曾孫、オロチンの娘として生まれたという[1]。デイ・セチェン家はチンギス・カンの正妃ボルテを輩出して以来、チンギス・カン家の姻族として繁栄してきた一族であり、シリンダリの父オロチンもクビライの娘ナンギャジンを娶った有力者であった[2]。テムルがシリンダリを娶ったのも、姻族として有力なデイ・セチェン家と姻戚関係を結ぶことで帝位継承争いで優位に立つという目的があったものと見られる[3]

至大3年(1310年)、貞慈静懿皇后として追諡されている。

ブルガンとの関係

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『元史』巻114列伝1后妃伝には「[シリンダリは]大徳3年(1299年)10月に皇后とされ、皇子デイシュを生んだが早くに亡くなった」と記される[4]が、この記述は甚だ疑わしいものである。

まず、シリンダリが皇后とされた時期であるが、『元史』巻106表1后妃表には「失憐答里元妃弘吉剌氏、早薨。至大元年追尊諡曰貞慈静懿皇后、配享成廟」とあり、また巻74祭祀3には「[大徳]十一年、武宗即位……追尊先元妃為皇后、祔成宗室」と記され、どちらもクルク・カアン(武宗カイシャン)の即位直後に「元妃」シリンダリが追尊されて「皇后」になったと記され、シリンダリが大徳3年に皇后になったとする『元史』巻114列伝1后妃伝と食い違う。

また、皇太子デイシュの母親については、『山居新話』や『輟耕録[5]といった漢文史料、また『集史』や『ワッサーフ史』といったペルシア語史料全てがバヤウト部出身のブルガンがデイシュの母であったと記し、シリンダリが皇太子の母であったと記すのは『元史』巻114列伝1后妃伝のみである。

以上の点を踏まえ、史実としてはブルガンこそが皇太子デイシュの母親であり、大徳3年に皇后とされたのもブルガンのことであると考えられている。このような改竄が行われたのは、テムルの死後帝位についた武宗カイシャン、仁宗アユルバルワダの母で、シリンダリと同じコンギラト出身のダギの存在が関係していると考えられる[6]

コンギラト部デイ・セチェン家

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脚注

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  1. ^ オロチン(Oročin >斡羅陳/wòluōchén)はデイ・セチェン(特薛禅)の息子アルチ(Alči >按陳/ànchén)の息子ナチン(Način >納陳/nàchén)の息子に当たる。『元史』巻118列伝5特薛禅伝「特薛禅、姓孛思忽児、弘吉剌氏……子曰按陳……弟納陳、歳丁巳襲万戸……中統二年与諸王北伐、以其子哈海・脱歓・斡羅陳等十人自従……」。
  2. ^ 『元史』巻118列伝5特薛禅伝「……斡羅陳襲万戸、尚完沢公主。完沢公主薨、継尚嚢加真公主」
  3. ^ 宇野1999,41頁
  4. ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝「成宗貞慈静懿皇后、名失憐答里、弘吉剌氏、斡羅陳之女也。大徳三年十月、立為后。生皇子徳寿、早薨。武宗至大三年十月、追尊諡貞慈静懿皇后……」
  5. ^ 『輟耕録』巻5「僧有口才:大徳間、僧膽巴者、一時朝貴咸敬之。徳寿太子病癍薨、不魯罕皇后遣人問曰……」
  6. ^ 宇野1999,63-64頁

参考文献

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  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52号、1993年
  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係に見られる対称的婚姻縁組」『国立民族学博物館研究報告』別冊 20、 1999年