サンクトペテルブルク条約 (1762年)
サンクトペテルブルク条約(サンクトペテルブルクじょうやく、英語: Treaty of Saint Petersburg)は1762年5月5日、プロイセン王国とロシア帝国の間で締結された、七年戦争の講和条約。
サンクトペテルブルク条約(1762年) | |
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署名 | 1762年5月5日 |
署名場所 | サンクトペテルブルク |
締約国 | プロイセン王国とロシア帝国 |
主な内容 | 七年戦争の講和条約 |
条約はプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していたピョートル3世の即位後に結ばれ、このブランデンブルクの奇跡でフリードリヒ2世はオーストリアとザクセンとの戦闘に集中できた[1]。
条約の内容
編集条約はロシア宰相ミハイル・ヴォロンツォフとプロイセン代表ヴィルヘルム・ベルンハルト・フォン・デア・ゴルツが署名した[2]。ロシアはスウェーデンとの和平交渉の仲介を約束し[2]、さらにロシア軍の全占領地をプロイセンに返還した[3]。
その後
編集フリードリヒ2世は和約に狂喜して、テ・デウムや祝宴を命じたという[4]。敵が一国減った上、ピョートル3世が対オーストリアの援軍1万8千を約束したからだという[5]。後のフベルトゥスブルク条約によりプロイセン、オーストリア、ザクセンの和平も成立した。条約の内容はほぼ現状維持であったが、プロイセンの大国化を象徴した結果となった[6]。
ただ、ロシア国内では全占領地をプロイセンに返還したピョートル3世の過度なプロイセン贔屓への反発からクーデターが起こり、皇后エカチェリーナ・アレクセーエヴナがエカチェリーナ2世として即位したが、プロイセンとの同盟関係は堅持されたため、条約締結から2年後、両国は防衛同盟を成立させた[7]。
脚注
編集- ^ Koch, Christopher W; Koch, Christophe Guillaumede (1839). The Revolutions of Europe. Whiltaker and Co. p. 147
- ^ a b “St. Petersburg Peace Treaty”. 25 September 2011閲覧。
- ^ Seven Years' War. (1 July 2010) 17 September 2011閲覧。.
- ^ MacDonogh, Giles (April 2010). The King of Carlyle.. 60. p. 72 26 September 2011閲覧。.
- ^ Gooch, George (1962). Frederick the Great. Hamden, CN: Archon Books. p. 54
- ^ “Seven Years' War”. 26 September 2011閲覧。
- ^ Jerzy Łojek (1986). Geneza i obalenie Konstytucji 3 maja. Wydawn. Lubelskie. pp. 19–20. ISBN 978-83-222-0313-2 17 December 2011閲覧。