コーチシナ

ベトナム南部を指す歴史的呼称

コーチシナフランス語: Cochinchine française/交趾支那)は、フランス統治時代のベトナム南部を指す歴史的呼称。阮朝ベトナムの行政区分におけるナムキベトナム語Nam Kỳ / 南圻)に相当し、独立後のベトナムではナムボ(南部)ベトナム語版ベトナム語Nam Bộ / 南部)と呼ばれている。

コーチシナ(黄色)

フランスは支配下に置いたコーチシナでプランテーションを開始し、天然ゴムなどを安定供給することが可能となった。

名称

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交趾は元来ベトナム北部の「交趾郡」に由来する古称であったが、フランスが恣意的に使用した名称である。ヨーロッパ各国からはコーチンシナ:Cochin China ないし Cochinchina [ˌkoʊtʃɨnˈtʃaɪnə], :la Cochinchine [la kɔʃɛ̃ʃin])と呼ばれた。

歴史

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コーチシナ戦争

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1858年フランス帝国阮朝の間でコーチシナ戦争(1858年-1862年)が始まり、1859年にフランス軍がサイゴンを急襲して武力占領。1861年にはベトナム南部のザーディンビエンホアベトナム語版ディントゥォンベトナム語版(現在ティエンザン省)の三省を占領(en:Battle of Ky Hoaen:Capture of My Tho)。

コーチシナ総督府

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翌年6月の講和条約である第1次サイゴン条約で元々の所有者だったフエ阮朝宮廷に対し、これらコーチシナ東部三省とプロコンドル島Côn ĐảoPoulo Condor[1])を割譲させた。サイゴンに設置されたコーチシナ総督府が以後、フランスのベトナム侵略の拠点となる。フランスは1863年にカンボジアを保護国とする条約を結んでおり、仏領コーチシナをカンボジアと連結させるため、1867年ヴィンロンチャウドクハティエンのコーチシナ西部三省を武力占領してコーチシナ全域を支配下に置いた。

フランス保護領コーチシナ

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ベトナム宮廷は1874年第2次サイゴン条約でコーチシナ六省に対するフランスの完全な主権を承認し、直轄領としてのコーチシナ植民地が正式に成立する。また1883年癸未条約英語版(アルマン条約)によってアンナンよりビントゥアン省が割譲され、コーチシナに編入されている。

仏領インドシナ

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1887年には新設のインドシナ総督の下で直轄領コーチシナ、保護国アンナン、保護領トンキンを含む仏領インドシナ(インドシナ連邦)が成立した。

コーチシナ蜂起

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1916年コーチシナ蜂起英語版

コーチシナ共和国

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1945年ベトナム八月革命ベトナム民主共和国が成立すると、フランスはコーチシナの権益を維持するため、 1946年6月1日にコーチシナ臨時政府を樹立[2]してベトナムからの分離を画策した。

だが、1948年ベトナム国樹立の動きが本格化すると、コーチシナ共和国は自治を前提としたベトナム国への統合を決定し、1949年にベトナム国へ併合された。

脚注

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  1. ^ en:Con Dao Prisonがあった。
  2. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、353頁。ISBN 4-00-022512-X 

関連項目

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