コンラート1世 (ニュルンベルク城伯)
コンラート1世・フォン・ニュルンベルク(Konrad I. von Nürnberg、コンラート1世・フォン・ツォレルンとも、1186年頃 – 1260年/61年頃)は、敬虔伯とも呼ばれるホーエンツォレルン家出身のニュルンベルク城伯。
コンラート1世 Konrad I. | |
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ニュルンベルク城伯 | |
在位 | 1218年 - 1260/61年 |
出生 |
1186年頃 |
死去 |
1260/61年頃 |
配偶者 | アーデルハイト・フォン・フロンテンハウゼン |
子女 |
フリードリヒ3世 アーデルハイト ゾフィー コンラート2世 |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
父親 | フリードリヒ1世・フォン・ニュルンベルク |
母親 | ゾフィア・フォン・ラープス |
生涯
編集コンラートは、ホーエンツォレルン家で初めてニュルンベルク城伯となったフリードリヒ1世・フォン・ニュルンベルク(ツォレルン伯フリードリヒ3世とも呼ばれる)とその妻ゾフィア・フォン・ラープス(1218年没)との間に長男として生まれた。コンラート1世は、初めツォレルン伯を受け継いだ。父親の死後、弟のフリードリヒ2世が一旦はニュルンベルク城伯を継承した。1218年(または1214年)にホーエンツォレルン家の所領分割が行われ、コンラートは、フランケン地方の所領と城伯位を獲得した。その後、彼は所領の拡大に着手する。このために彼は、皇位を巡るヴェルフェン家とシュタウフェン家の戦いでは、シュタウフェン家に好意的な政治姿勢を示した。皇帝フリードリヒ2世は、ニュルンベルクを信頼できる防衛拠点とするため、城の拡張を命じ、その城下町に自由付与状を授けた。コンラートが軍事防衛を請け負う傍らで、市民らは内政強化に励み自治権の拡大などを手に入れていった。皇帝が破門された時にも、コンラートはこれを保護している。1250年に皇帝が亡くなったことは、コンラートにとっても大きな打撃であった。今度は、近隣のフランケン地方土着の貴族達との戦いが行われたのである。しかし、そうした近隣貴族とのフェーデにも打ち勝ち、ペグニッツ渓谷の一部とアンスバッハ周辺のランガウ(ニュルンベルク郊外とフランケン高原の間付近の地域名)を確保したのであった。
後継者
編集コンラートは、アーデルハイト・フォン・フロンテンハウゼンと結婚し、以下の子女をもうけた。
- フリードリヒ3世・フォン・ニュルンベルク(1220年頃 - 1297年) - ニュルンベルク城伯
- アーデルハイト(1220年頃 - 1304年) - ラポト・フォン・オルテンブルクと結婚
- ゾフィー - マルクアルト・フォン・ヘイデックと結婚
- コンラート2世(? - 1314年)
参考文献
編集- M. Spindler, A. Kraus: Geschichte Frankens bis zum Ausgang des 18. Jahrhunderts, München 1997. ISBN 3-406-39451-5
この文献は、ドイツ語版の文献として挙げられていたものであり、日本語版作成にあたり、直接参照はしておりません。
外部リンク
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