コルギス (エルジギン部)
コルギス(モンゴル語: Körgis,中国語: 闊里吉思, ? - 1301年)は、13世紀末から14世紀初頭にかけてモンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた将軍の一人。コンギラト部の一派、エルジギン部の出身であった。『元史』などの漢文史料では闊里吉思(kuòlǐjísī)と表記される。
概要
編集コルギスの曽祖父バス・ブカはチンギス・カンに仕えて主に西方遠征に活躍躍した人物で、ナイマン・キプチャク・オロス(ルーシ)・マジャール・サルタウル(イスラム国家)諸国の攻略に功績を挙げた。これらの諸国との戦いでは常に先鋒を務めて活躍したため、賞賛を受けて虎符を与えられたという。その後バス・ブカは活躍の場を華北に移して豊州・雲州などの攻略に貢献し、以後その子孫は東方で活躍するようになった[1]。
コルギスははじめクビライのケシクテイ(親衛隊)に仕えてバウルチとなり、至元25年(1288年)には朝列大夫・司農少卿に任じられた。その後、史に栄禄大夫・行湖広平章に転任となり、海南島の反乱分子を討伐した。翌至元26年(1289年)には平定を終え、朝廷に帰還して報償として玉束帯・金銀・幣帛・弓矢・甲冑を下賜された[2]。
至元31年(1294年)にテムルがオルジェイトゥ・カアンとして即位すると入見し、海東青鶻・白鶻を与えられた。大徳2年(1298年)には福建行省平章に任じられ、福建道宣慰使・都元帥を経て征東行省平章政事に転任となった。当時、征東行省の治所があった高麗は政治と刑法が放漫であり、冗官の人数が多いことに対して良民は少ないなどの弊害が激しかった。ゴルギスはこれを是正するため、奴婢法の改革により良民を拡充することを勧めたが、国俗をむやみに変えることはできないという高麗側の反発にぶつかって頓挫した[3][4]。
大徳5年(1301年)、再び湖広行省の平章とされたが、病のため京師に戻った。そこで改めて雲南諸路行中書省左丞相に任じられたが、間もなく66歳で亡くなった。死後、息子のオルジェイ(完澤)が跡を継いだ[5]。
脚注
編集- ^ 『元史』巻134列伝21闊里吉思伝,「闊里吉思、蒙古按赤歹氏。曾祖八思不花、従攻乃蛮・欽察・兀羅思・馬扎児・回回諸国、常為先鋒破敵、太祖嘉之、賜以虎符。及諭降豊州・雲州、擢充宣撫使。祖忽押忽辛襲職、佩虎符。憲宗嘗語之曰『汝所佩金符旧矣、何以旌世功』。命改製、以賜之。中統三年、改河中府達魯花赤、卒。父薬失謀、擢襄陽統軍司経歴、改宿州達魯花赤、皆不拜。枢密副使孛羅・御史中丞木八剌引見世祖、奏曰『此忽押忽辛子也、乞以其祖父虎符授之』。擢中順大夫・金剛台達魯花赤、継改光州。屡遷安東州・河中府及温州・潞州、以建康路達魯花赤致仕」
- ^ 『元史』巻134列伝21闊里吉思伝,「闊里吉思初以宿衛、充博児赤。至元二十五年、擢朝列大夫・司農少卿、賜金束帯。遷中議大夫・司農卿。陞資善大夫・司農卿。拜栄禄大夫・行湖広平章、将兵討海南生黎諸峒寨。又明年、平之。師還、徴入見、賜玉束帯・金銀・幣帛・弓矢・甲冑、及宝鈔・鞍勒、得旨還鎮」
- ^ 『元史』巻134列伝21闊里吉思伝,「成宗即位、入見、賜海東青鶻・白鶻各一、及衣服有差。大徳二年、改福建行省平章。未幾、以福建隷江浙、改福建道宣慰使・都元帥。陞征東省平章政事。高麗刑政無節、官冗民稀、闊里吉思因悉加裁正以聞。有旨、徴入見、俾條析便民事宜」
- ^ 『高麗史』巻31世家第31忠烈王二十六年十月条,「是月、闊里吉思欲革本國奴婢之法、王上表曰『……由是、小邦之法、於其八世戸籍、不干賤類、然後乃得筮仕。凡爲賤類、若父若母、一賤則賤、縱其本主、放許爲良、於其所生子孫、却還爲賤。又其本主、絶其繼嗣、亦屬同宗、所以然者、不欲使終良也。……況又若更此法、非徒如治亂絲、因失舊章、不得僅存遺緖。故於至元七年、小邦去水就陸之時、先帝遣達魯花赤以治之。于時因人告狀、欲變此法、確論聞奏、廷議明斷、俾從國俗。衆姦絶窺窬之意、得至于今……』」
- ^ 『元史』巻134列伝21闊里吉思伝,「大徳五年、復拜湖広平章、踰年、改陝西、以目疾還京師。加官至金紫光禄大夫・雲南諸路行中書省左丞相、卒年六十六。子完澤、湖広右丞、征広西賊、卒于軍」
参考文献
編集- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年