ケニー・ファンヒュメル
(ケニー・ファン・ヒュメルから転送)
ケニー・ファンヒュメル(Kenny van Hummel、1982年9月30日- )は、オランダ、アルンヘム出身の自転車競技(ロードレース)選手。
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基本情報 | ||||
本名 |
Kenny Robert van Hummel ケニー・ロベルト・ファン・ヒュメル | |||
生年月日 | 1982年9月30日(42歳) | |||
国籍 | オランダ | |||
身長 | 176cm | |||
体重 | 64kg | |||
選手情報 | ||||
所属 | ヴァカンソレイユ・DCM | |||
分野 | ロードレース | |||
役割 | 選手 | |||
特徴 | スプリンター | |||
プロ経歴 | ||||
2006–2011 2012– |
スキル・シマノ ヴァカンソレイユ・DCM | |||
主要レース勝利 | ||||
ロンド・ファン・ドレンテ 2012 オランダ・フード・ヴァリー・クラシック 2009 ツール・ド・ピカルディ 第1ステージ 2010 ツール・ド・ベルギー 第2ステージ 2010 | ||||
最終更新日 2012年1月31日 |
経歴
編集ジュニア、アマチュア時代はロードレースのみならず、トラックレース、シクロクロスでも実績を挙げた。
- オランダ・フード・ヴァリー・クラシック優勝。
- ロンド・ファン・ドレンテ 2位
- スヘルデプライス 2位
- 国内選手権ロードレース 2位
- ダンケルク4日間レース 区間1勝
- 上記の通り、春シーズン急成長を遂げた。これらの実績を買われ、同年のツール・ド・フランス出場を果たしたが、後述の通り、違った意味で注目されることになる。
- ツール・ド・ピカルディ 区間1勝
- ツール・ド・ベルギー ステージ1勝。
- 10月のツアー・オブ・ハイナンで第4ステージから第7ステージまでステージ3連勝(第6ステージは中止)。第8ステージでもスプリントを制して1着入線したが、チームカーに引かせて集団復帰したとされペナルティにより降着された[1]。しかし翌第9ステージも制し、8ステージ中4ステージを勝つという大活躍を見せた。
- ロンド・ファン・ドレンテ 区間2勝(第1,2)、総合優勝
- メモリアル・リック・ファン・ステーンベルヘン 優勝
2012年、ヴァカンソレイユ・DCMに移籍。
- ツール・ド・ピカルディ 区間1勝(第2)
「最悪のクライマー」としての人気
編集スプリンターである彼は、山岳ステージを大の苦手としており、2009年にツール・ド・フランスに初出場すると、第2ステージ最初の3級山岳[2]にて、最初に集団から離され、山に対する弱さが浮き彫りになった。しかし山岳コースを苦手とするスプリンタータイプの選手が何人かリタイアする中、ピレネー、アルプスの両山岳ステージにおいて、収容車に追われながらも常に制限時間すれすれでゴールした。両方とも100km以上をグルペットにも入れず個人タイムトライアル状態でゴールするという体力的には非常に厳しい状態であった[3]。フランスのスポーツ紙・レキップから『史上最悪のクライマー』と皮肉混じりに取り上げられる一方で、僚友の別府史之はツイッターでファンヒュメルを「超人」と賞賛し[4]、ランス・アームストロングもこれに賛同した[5]。こうしてファンヒュメルは一躍、世界中の自転車ファンの注目の的となり、沿道のファンの声援も日増しに大きくなった。[要出典]
しかし、アルプス最終ラウンドとなる第17ステージ、約88km地点の下りで転倒しひざを負傷。病院へ運ばれリタイアとなってしまった。にもかかわらず、「(ぶっちぎりの)最下位であっても必ずゴールしてくれるはず」と期待していた大勢の沿道のファンたちが口をそろえて、「ケニーはどうした?」と叫んだという[6]。
脚注
編集- ^ 苦渋のファンヒュメル ペナルティによりステージ4連勝は幻に
- ^ 山岳賞#各カテゴリーの目安を参照
- ^ 自転車レースでは一人で走るより、二人以上で先頭交代しながら走った方が空気抵抗が軽減され、体力を温存できる。
- ^ 別府史之のツイート
- ^ ランス・アームストロングのツイート
- ^ 日刊スポーツ2009年7月23日付記事
外部リンク
編集- 公式サイト
- ツイッター-しばしば別府史之との間で「さっさと寝ろよ」のかけあいが見られる。
- ケニー・ファンヒュメル - サイクリングアーカイヴス