グラーフ=ライネ(Graaff-Reinet)は、南アフリカ共和国の都市。東ケープ州に属する。人口80,776人。オランダ統治時代からの古い町であり、オランダ東インド会社のケープ植民地における4番目の拠点だった。

グラーフ=ライネ
Graaff-Reinet
位置
グラーフ=ライネの位置(南アフリカ共和国内)
グラーフ=ライネ
グラーフ=ライネ
グラーフ=ライネ (南アフリカ共和国)
グラーフ=ライネの位置(東ケープ州内)
グラーフ=ライネ
グラーフ=ライネ
グラーフ=ライネ (東ケープ州)
グラーフ=ライネの位置(アフリカ内)
グラーフ=ライネ
グラーフ=ライネ
グラーフ=ライネ (アフリカ)
座標 : 南緯32度15分08秒 東経24度32分26秒 / 南緯32.25222度 東経24.54056度 / -32.25222; 24.54056
歴史
設立 1786年
行政
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
  東ケープ州
 地区自治体 カカドゥ郡
 地方自治体 カンデブー地方自治体
 地区 グラーフ=ライネ
人口
人口 (現在)
  地区域 80,776人
その他
等時帯 南アフリカ標準時 (UTC+2)

歴史

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グラーフ=ライネは1786年、カルー地方に進出したボーア人たちの拠点としてオランダ東インド会社によって建設された。東インド会社の拠点としては、ケープタウンステレンボッシュ、スウェレンダムに次ぐ4番目の開拓拠点であり[1]、拠点中最も東、ボーア人の進出限界近くにあった。グラーフ・ライネという地名は、建設当時のケープ総督であったコルネリス・ヤコブ・ファン・デ・グラーフと、彼の妻であるライネの名にちなんでつけられた。

グラーフ・ライネにはラントドロスト(地区行政長)が置かれ、この広大な地方に薄く広く広がったトレックボーアたちを統括した。1793年には、グラーフ・ライネ地区(市ではない)の市民は3100人であった[2]。グラーフ・ライネ地区は東のコーサ人との国境地区であり、1779年以来いさかいが絶えなかったが、東インド会社は充分な支援をしなかったため、1795年にトレックボーアの有力な市民がラントドロストを追放し、共和国を宣言した。ケープタウンの当局はこれを鎮圧しようとしたもののケープ植民地自体がイギリスに占領されたため実現せず、グラーフ・ライネ共和国は1799年まで存続した[3]。1799年に共和国は崩壊し、指導者だったマルティヌス・プリンスローと19人の指導者たちはキャッスル・オブ・グッドホープへと収監された。

1801年には反乱が再燃したが、このときはF・ダンダス総督の融和策により程なくして収束した。

地理

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ドロスディ・ホテル

グラーフ・ライネは標高750m、カルー盆地にあり、サンデーズ川に取り囲まれるようにして街が広がっている。街はカムデブー国立公園に囲まれており、近郊の荒廃の谷間などを訪れる観光客も多い。また、1805年に建設された地方役場をホテルに改装したドロスディ・ホテルやライネハウス博物館、オランダ改革派教会の教会など観光名所も多い。グラーフ・ライネは近隣の畜産物の集散地でもあり、モヘアダチョウなどが盛んに取引されている。

脚注

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  1. ^ レナード・トンプソン著、宮本 正興・峯 陽一・吉国 恒雄訳、1995、『南アフリカの歴史』、明石書店 ISBN 4750306991、p.110
  2. ^ レナード・トンプソン著、宮本 正興・峯 陽一・吉国 恒雄訳、1995、『南アフリカの歴史』、明石書店 ISBN 4750306991、p.111
  3. ^ 「アフリカ大陸歴史地図」第1版、2002年12月3日(東洋書林)p97

関連項目

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