グナエウス・ユリウス・アグリコラ

グナエウス・ユリウス・アグリコラGnaeus Julius Agricola, 40年7月13日 - 93年8月23日)は、ユリウス=クラウディウス朝フラウィウス朝時代の帝政ローマの軍人。主にブリタンニアへのローマ軍の遠征で活躍した。また歴史家タキトゥスは彼の娘婿になり、彼の手による伝記『アグリコラ』を記した。

グナエウス・ユリウス・アグリコラ

青年期

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アグリコラの出自は属州ガリア・ナルボネンシスで、両親はエクィテス階級のものであったと言う。父方母方双方の祖父は帝国の行政に関わった人間であった。父親ユリウス・グラエキヌスはプラエトル職を勤める元老院議員であり、哲学に興味を持つ人間であったという。しかしカリグラの在位の際に皇族に近い人物であったマルクス・ユニウス・シラヌス・トルクァトゥスを迫害するのを拒否、これにより死罪となった。

アグリコラの母親はユリア・プロキッラ。タキトゥスによれば、彼女は美徳に優れた女性であったと言い、彼女の慈愛のもとでアグリコラはマッシリアで育てられた。

初期の経歴

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アグリコラの経歴はガイウス・スエトニウス・パウリヌス傘下のローマ軍に在籍するトリブヌス・ミリトゥムから始まった。恐らくブリタンニア駐在の第2軍団アウグスタに所属していたものと思われるが、スエトニウス直属の部下になるよう選ばれ、ブーディカ率いる反乱の鎮圧に参加した。62年にはローマに帰還、社会的地位の高い出自のドミティア・デキディアナと結婚、息子が生まれた。64年にはクァエストルに、プロコンスルであったサイウィウス・ティティアヌス配下のもとアシア属州に赴く。この任務執行の時に娘ユリア・アグリコラが生まれたが、先に生まれた息子は夭折した。66年には護民官に、68年には法務官に選出される。

四皇帝の年

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この年の6月にローマ皇帝ネロ元老院から国家の敵と宣言され自殺、元老院議員ガルバが推されて皇帝となったが、アグリコラはガルバの命令で神殿の財産目録を編集するように命ぜられる。しかし、すぐにガルバは69年に殺害され、皇帝位は属州ルシタニアの総督であったオトに、この時母親が暴徒となったオト配下の軍団に殺され、彼女のリグリアでの生家も略奪された。そしてオトがウィテリウスに敗れ自殺。元老院議員ではあったが、能力に欠けたウィテリウスの人望が潰え、代わりにユダヤ属州に駐留する司令官ウェスパシアヌスへの期待が高まる中、アグリコラはウェスパシアヌスを支持、ウィテリウスは殺され、ウェスパシアヌスはローマ皇帝となった。

ブリタンニア遠征

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ウェスパシアヌスの任命によりマルクス・ロスキウス・コエリウスの後任としてブリタンニア駐留の第20軍団ウァレリア・ウィクトリクスの司令官に命ぜられる。ブリタンニアは四皇帝の年以降、毎年のように反乱に悩まされるようになり、また属州総督マルクス・ウェッティウス・ボラティヌスは穏便な人物であったため事態に対応できず、より強硬的な人物であったクィントゥス・ペティリウス・ケリアリスが総督として変わった。そしてケリアリスの指揮のもとアグリコラは自らの才能を披露する。75年に任務が終わり、アグリコラはパトリキに追加され、ガリア・アクィタニアの総督となる。77年にはローマに帰還、そして補欠執政官として選ばれた。翌年にはタキトゥスに娘を与え、娘婿とする。そしてブリタンニアに総督として再び赴いた。

78年の夏、アグリコラはのローマ騎兵を殲滅させたオルドウィチ族を討伐のため北ウェールズに遠征、そして北上、モナ島に上陸する。ここは61年にスエトニウス・パウリヌスにより撤退したが、ブリタンニア現地人により回復していた。アグリコラはこの地をローマ化、すなわちローマ式の建物を建て地位の高い者の子息をローマ式の教育を与える事により行政で高い評価を受ける。また彼はカレドニアにも遠征、ローマ軍をタウス川よりも北に北上し、城塞を築いたと言う。

82年には「初めて船で航行しローマ人には知られてはいない民を撃ち破った」とされるが、それがどこの民を指しているのかは現在では意見が分かれている。現在の学者のほとんどはクライド川河口であったというが、ある者はアイルランドではないかとも言っている。確かにアグリコラはアイルランドと面するブリタンニアの沿岸部に城塞を築いており、またタキトゥスの記述では、養父アグリコラは1つのレギオーと現地の補助兵で島を征服できうると言っていたと伝えている。しかしながら現時点では詳しくは分かってはいない。

翌年、アグリコラはカレドニア遠征に再度軍を召集、大多数のカレドニア現地人はローマに対して反抗、第9軍団ヒスパナが攻撃される。アグリコラはこれに対して騎兵を派遣、撃退に成功、ローマ軍を北上させ、北へと追い詰める。この時彼には息子が生まれたが、同年夭折した。84年夏にはカルガクスのもとに結集したカレドニアの武装勢力(タキトゥスによれば30,000人以上)に対抗、モンス・グラウピウスの戦いで敗った。カレドニア側の戦死者は10,000人以上、ローマの戦死者は360人ほどであった。そしてローマに対抗する勢力を鎮圧できたと判断を下し、軍を南下させた。またアグリコラはこの時、一軍を海路でもって北上調査させた。これによりブリタンニアが島であることが確認された。

ブリタンニア遠征以降

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85年にアグリコラは異例の長期間にわたるブリタンニア駐在より呼び戻された。タキトゥスによれば、理由はアグリコラの業績が皇帝ドミティアヌス自身が率いたゲルマニアでの戦役の業績に影をさしかねないと危惧したためとしている。実際にはドミティアヌスとアグリコラとの間にそのような軋轢があったのかは分かってはいない。事実アグリコラは凱旋式の栄誉を受けており、立像も建立されるなど厚遇とも言える扱いを受けているが、一方で以降彼が主要な軍事職を就くことはなかったのも事実である。その後、アフリカ属州の総督の地位を用意されたが、彼は断り93年に死去した。