クリスタルズ (アメリカ合衆国のグループ)
ザ・クリスタルズ (The Crystals)は、ニューヨークで結成されたアメリカの女性ボーカル・グループ。1961年から1964年にかけてフィル・スペクターのプロデュースにより、「恋のアップタウン」「ヒーズ・ア・レベル」「ハイ・ロン・ロン」「キッスでダウン」などのヒットを量産した。
ザ・クリスタルズ | |
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1963年撮影。左からパトリシア・ライト、ドロレス・ケニーブリュー、ドロレス・ブルックス、バーバラ・アルストン。 | |
基本情報 | |
出身地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | フィルズ・レコード |
共同作業者 | |
メンバー |
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旧メンバー |
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デビュー~初期
編集1961年にバーバラ・アルストン、メアリー・トーマス、ドロレス・"ディー・ディー"・ケニーブリュー、マーナ・ジラード、およびパトリシア・"パッツィ"・ライトの5人で結成され、すぐにフィル・スペクターのレーベル、フィレス・レコードと契約。
彼女たちの最初のヒットは、1961年11月にリリースされた「ゼアズ・ノー・アザー・ライク・マイ・ベイビー」(There's No Other Like My Baby)で、ビルボードの20位まで上昇した。
続いて、バリー・マンとシンシア・ウィルのペンになる「恋のアップタウン」(Uptown) が2曲目のラジオ・ヒットとなる。
この後、妊娠したジラードに代わり、ドロレス・"ラ・ラ"・ブルックスが加入。
1962年、キャロル・キング、ゲリー・ゴフィン作の「ヒー・ヒット・ミー」(He Hit Me (And It Felt Like a Kiss)) は歌詞に問題があるとされ、ラジオでもあまりかからずビルボードホット100にチャートインしなかった。
ニセ・クリスタルズと謎のレコーディング
編集フィル・スペクターは「ヒー・ヒット・ミー」の失敗後すぐ、クリスタルズを使ってジーン・ピットニー作の「ヒーズ・ア・レベル」(He's A Rebel)をレコーディングしようとしていた。
しかし、ニューヨークを拠点とするクリスタルズは、ロサンゼルスに本拠を置くスペクターの下に迅速に移動できず、他のバージョンがリリースされないうちにこの曲をプロデュースしてしまいたかったスペクターは、LAにいたダーレン・ラヴと彼女のバッキング・グループのブロッサムズを使ってレコーディング、その音源をクリスタルズ名義でリリースしてしまった(この曲はもともとシレルズにオファーしたものであったが、シレルズのメンバーはその反体制的な歌詞に難色を示し、オファーを断っていた)。
この曲は(本人たちのレコーディングではないにもかかわらず)クリスタルズを少女グループからワイルドな大人の歌手へイメージチェンジさせることになり、後のグループ(シャングリラスの「リーダー・オブ・ザ・パック」など)への布石にもなり、皮肉なことに全米No.1にまで上りつめてグループ最大のヒットとなった。
続く「愛しているんだもの」(He's Sure the Boy I Love)も同じくラヴとブロッサムズの歌唱が使用され11位まで上昇した。
クリスタルズ名義の次作「Let's Dance The Screw - Part I」は、当時のラジオではオンエアされる可能性が極めて低い6分近くの長い曲で、短いフレーズを繰り返すだけの単調で無表情な歌詞と、スペクター得意のウォール・オブ・サウンドとは程遠い薄っぺらなバッキングで構成された、ポップミュージック史上もっとも奇妙な作品のひとつである。
このレコーディングが本当のクリスタルズのものか、ラヴ&ブロッサムズのものなのかは今もって不明である。結局この曲はシングルとしてリリースされなかった。
本家クリスタルズの復帰
編集「Let's Dance The Screw - Part I」の謎多いレコーディングの時期を経て、1963年には本家クリスタルズが彼女たちの名前の下レコーディングに復帰。しかし、この時点でメアリー・トーマスは結婚して他のグループに移籍。同時に、デビュー以来リードをつとめていたが元来シャイでステージに弱かったバーバラ・アルストンに代わり、"ラ・ラ"・ブルックスがリードにコンバートされた。
「Let's Dance The Screw - Part I」に続く6枚目のシングルは彼女たちの代表曲となる「ハイ・ロン・ロン」(Da Doo Ron Ron)。この曲も最初はダーレン・ラヴとブロッサムズによってレコーディングされたが、リリース直前になってスペクターはラヴのリードのみを"ラ・ラ"・ブルックスのものに差し替えた。曲はアメリカ、イギリス双方でトップ10ヒットとなった。続く「キッスでダウン」(Then He Kissed Me)は「ヒー・ヒット・ミー」以来、本来のクリスタルズが全員レコーディングに参加した曲となった。
しかし、ヒット・シングルを量産していたにもかかわらず、ラヴとブロッサムズの一件、ロイヤリティに対する不満、またスペクターが1964年以降クリスタルズよりもザ・ロネッツに力を入れ始めたこと[2]などにより、グループとスペクターの関係は徐々に悪化していった。
スペクターとの決別~解散~再結成
編集1964年にリリースした2枚のシングルはいずれも商業的には惨敗。
グループはフィリーズ・レコードを去り、ユナイテッド・アーティスツに移籍する。
同年ライトがグループを脱退し、後任にはツアー中にグループと知り合ったフランセス・コリンズが加入。その年の終わりにはアルストンが脱退し、グループはトリオ編成になった。
トリオ編成で"My Place", "You Can't Tie a Good Girl Down"の2曲をレコーディング。
1967年に弱小レーベルのミシェル・レコードからもう1枚シングルをリリースした後グループはいったん解散した。
しかしその後1971年に再結成。現在も、唯一のオリジナルメンバー・ケニーブリューを中心に、2002年加入のメルソールトゥリー・アントワネット、2005年加入のパトリシア・プリンチェット・ルイスの3人組で活動中である。
ディスコグラフィ
編集スタジオアルバム
編集- 1962: Twist Uptown
- 1963: He's a Rebel (US #131)
コンピレーションアルバム
編集- 1963: The Crystals Sing the Greatest Hits, Volume 1
- 1992: The Best of the Crystals
シングル
編集バーバラ・アルストン Lead Vo.
編集- 1961: There's No Other (Like My Baby) (US #20)
- 1962: Uptown (US #13)
- 1962: He Hit Me (And It Felt Like a Kiss)
ダーリーン・ラヴ Lead Vo.
編集- 1962: He's a Rebel (US #1, UK #19)
- 1963: He's Sure the Boy I Love (US #11)
ドロレス "ラ・ラ" ブルックス Lead Vo.
編集- 1963: Da Doo Ron Ron (US #3, UK #5 and UK #15 on re-issue in 1974)
- 1963: Then He Kissed Me (US #6, UK #2)
- 1964: I Wonder (UK #36)
- 1964: Little Boy (US #92)
- 1964: All Grown Up (US #98)
脚注
編集外部リンク
編集- Official website of the latest incarnation of The Crystals
- Crystals Biography I
- Crystals Biography II
- Crystals Discography I
- Crystals Discography II