ガマ (洞窟)
日本の沖縄県の沖縄本島南部に多く見られる自然洞窟
風葬や洞穴葬の場所として
編集現在、沖縄本島における葬制は火葬となっているが、伊波普猷の報告[2]にあるとおり、明治時代までは風葬がおこなわれていた[3]。風葬は明治時代に行政から禁止されたが[注釈 1]、久高島では1960年代まで行われていたことが確認されている[3][注釈 2] また風葬に近い葬法では、1970年代まで宮古島で洞穴葬がおこなわれていた[4][注釈 3]。
風葬において遺体はまず崖(パンタ)や洞窟(ガマ)に置かれて自然の腐敗を待ち、3年後・5年後・7年後など適当な時期を見て洗骨して納骨する。日本本土では薄葬令(646年)により庶民も定まった墓地に葬むる慣習が定着したのに比して、琉球弧において崖(パンタ)や洞窟(ガマ)は古来、現世と後生の境界の世界とされ、聖域であると同時に忌むものとされてきた。祖霊を崇める一方で、「死」はあくまで「穢れ」と捉えられているのである。
戦争の舞台として
編集太平洋戦争の末期に起こった沖縄戦では、住民や日本兵の避難場所として、また野戦病院として利用された[7]。読谷のチビチリガマ・シムクガマや、現在ひめゆりの塔が建っている沖縄陸軍病院第三外科壕跡、伊江島のニャティヤ洞(千人ガマ)などがある[8]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 鹿児島県庁が発した沖永良部島への諭達など。『沖永良部諸改正令達摘要録』には「爾来地葬すべきは当然に候処或る所は其棺を墓所に送り、モヤと唱ふる小屋内に備置き、親子兄弟等此モヤに到、其棺を開き見る数回、終に数日を経屍の腐敗するも臭気も不厭赴に相聞、右は人情の厚きに似たれども、其臭気を嗅ぐものは甚だ健康を害し候は勿論、近傍通行の者いへども、其臭気に触るれば病を伝染し、或は一種の病気を醸すものに有之、衛生上甚だ不宜事に付、自今右様之弊習は此度相改め云々」と記されている。
- ^ 『葬と供養』1992年 「1 葬法論 - 凶癘魂と鎮魂 3 自然葬法と鎮魂 7 久高島の風葬」によれば、久高島では昭和41年(1966年)におこなわれたイザイホー神事の際、ある事件が起こり島民は風葬を廃止することとした。同書によれば、過疎の進む久高島で、これがもう最後の神事になるかもしれないというので、多くの報道陣を受け入れたが、その中のカメラマンが風葬がおこなわれている後生(グソー)に入って墓を写真にとるばかりか、棺をしばる太い針金を切って死者の写真を撮るという墓荒らしをおこなった。しかもこの写真は、ある好奇心の強い太陽の好きな前衛画家の見学記に入れて週刊誌に載せられた。慟哭するほどのショックを受けた島民は、告発することも考えたが、犯行責任の所在を問うことが困難なので、おとなしい島民らしく風葬を廃止することとした。久高島では、この後5年ほどで完全に土葬と火葬に転換したのだと言う。著者の五来重は「・・・(風葬は)自然死のように消えるのがのぞましいのであって、久高島の風葬は非業の死であり、頓死であった。」と述べて、この事件を非難している。
- ^ 河村只雄は「風葬といふのは天然の洞窟や『墓地の森』の中になきがらを只置いて帰るのである。」と述べ、その様子を「正に、死体遺棄とでも言ひたいところである」と表現し、風葬とは葬法に人工が加わらないものと定義している[5]。桜井徳太郎もこの考えを支持し、海蝕・風蝕洞穴に人工の手が加えられて埋葬される葬法を風葬とはしていない。[6]本記事でもこの考え方を基に、海蝕・風蝕洞穴に棺を安置した後、その扉口を石・泥・漆喰で密閉する葬法を風葬に含めず洞穴葬とした。
出典
編集- ^ ガマ 沖縄用語集 - 沖縄の休日
- ^ 伊波普猷「をなり神の島」 「南島古代の葬制」より。「をなり神の島」は『伊波普猷全集 第5巻』1974年に所収されている。
- ^ a b 『葬と供養』1992年 「1 葬法論 - 凶癘魂と鎮魂 3 自然葬法と鎮魂 7 久高島の風葬」より。
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第9章 死の儀礼と巫俗 - シャーマンと葬墓制 - 第2節 葬墓制と巫俗 3 葬墓制とその推移」より。
- ^ 河村只雄『南方文化の探究』1999年 [要ページ番号]
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第9章 死の儀礼と巫俗 - シャーマンと葬墓制 - 第2節 葬墓制と巫俗 結 まとめと残された問題」より。
- ^ 戦争と子ども -沖縄戦に学ぶ- - 和光大学[リンク切れ]
- ^ 南風原文化センターと沖縄陸軍病院南風原壕群20号で見る南部戦線の面影 - DEEokinawa