カンティワティー・デビー
カンティワティー・デビー(Kantiwati Devi, 生年不詳 - 1799年10月31日)は、ネパール王国の君主ラナ・バハドゥル・シャハの内妃(側室)。カンタワティー・デビー(Kantawati Devi)とも呼ばれる。
カンティワティー・デビー Kantiwati Devi | |
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ネパール王妃 | |
出生 |
不詳 |
死去 |
1799年10月31日 デウパタン |
配偶者 | ラナ・バハドゥル・シャハ |
子女 | ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ |
宗教 | ヒンドゥー教 |
生涯
編集1797年1月、ネパール王ラナ・バハドゥル・シャハと結婚した[1]。ブラーフマナの娘であったが、ラナ・バハドゥルの内妃として寵愛を受けていた。ヒンドゥー教の教えでは、クシャトリヤとブラーフマナの結婚は認められておらず、堕落行為とみなされていた[2]。そのため、この結婚は当時の保守社会には耐えがたいほどの異例であった、と佐伯は述べている[2]。
1799年、ラナ・バハドゥルは嫡子を差し置いて、カンティワティーとの間に生まれたギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハに王位を譲って出家した。だが、この譲位は嫡子を差し置いての譲位であったため反対が多く、ラナ・バハドゥルは重臣ら95名に譲位を認める起請文を書かせたうえ、その戴冠式にはパルパ王プリトヴィーパーラ・セーナも招待した[2]。
譲位後、ラナ・バハドゥルは第一正妃ラージ・ラジェシュワリー・デビーを摂政に任じ、カンティワティーとともにデウパタン移り住んだ[3]。だが、まもなくカンティワティーは病に倒れたため、ラナ・バハドゥルはブラーフマナの助言に従ってパタンに移り住み、神々へのあらゆる礼拝供養、多額の布施行を行った[3]。
しかし、その甲斐も虚しく、同年10月31日にカンティワティーは死去した[1]。この死へのラナ・バハドゥルの怒りはすさまじく、神やブラーフマナを罵り、神像を破壊するなど過激な行動に走るほどだった[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。