エンシスハイム隕石
エンシスハイム隕石(エンシスハイムいんせき、英: Ensisheim meteorite)は、1492年11月7日、前方オーストリア・アルザス地方の城壁に囲まれた町エンシスハイム(現在のフランスオー=ラン県ゲブヴィレール郡エンシスハイム)郊外の小麦畑に落下した隕石。LL6普通コンドライトに分類される石質隕石で[1]、落下の目撃記録のある隕石としてはヨーロッパで最も古い隕石とされる[2]。
隕石の落下と当時の反応
編集1492年11月7日午前11時から正午にかけて、高速で大気に突入し、光と大音響を残してエンシスハイム近くの農園に落下した[2]。爆発音はドナウ、ネッカー、アーレ、ラインの谷に沿って響き渡り、150キロメートル以上離れたスイスのウーリ州でも聞こえたという記録が残っている[3]。落下した時点ではその質量は127キログラムあり、形状は三角形で、落下地点の小麦畑に1メートルの穴を作ったと伝えられる[2]。穴から隕石が引き上げられると、エンシスハイムとその近くの村人によって隕石が削り取られたが、時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンのためにこの石を保存すべく、地元の役人がそれ以上の破壊を押し留めた。
『阿呆船 (Das Narrenschiff)』で知られる風刺作家ゼバスティアン・ブラント は、1492年の終わりまでに隕石の落下を題材とした自作の詩を載せた4篇のチラシ (英: brodesheets, 独: Flügblatter) を、バーゼル、ロレーヌ、ストラスブールで配布した[3]。ブラント作の詩篇は、隕石の一部とともにバチカンのピッコロミニ枢機卿(のちの教皇ピウス3世)へと送られた。
画家アルブレヒト・デューラーは、1494年の油彩画『荒野の聖ヒエロニムス』の裏面に流星とも彗星とも取れる天体現象を描いており[4]、1492年11月当時バーゼルに住んでいたデューラーがエンシスハイム隕石による火球を描いたものとする説もある[3]。ハルトマン・シェーデルが1493年に刊行したニュルンベルク年代記の見開き257にもこの隕石の落下が描かれている[3]。
エンシスハイムの旧市庁舎の中にある市立博物館 musée de la Régence に、現存する53.831 キログラムの隕石が展示されている[2]。その他、ヨーロッパを中心に切り取られた破片が保存・展示されている[2]。
出典
編集- ^ McSween, Harry Y.; Bennett, Marvin E.; Jarosewich, Eugene (1991). “The mineralogy of ordinary chondrites and implications for asteroid spectrophotometry”. Icarus 90 (1): 107-116. Bibcode: 1991Icar...90..107M. doi:10.1016/0019-1035(91)90072-2. ISSN 0019-1035.
- ^ a b c d e “Météorite d’Ensisheim”. Ensisheim.net. 2020年7月26日閲覧。
- ^ a b c d Marvin, Ursula B. (1992). “The meteorite of Ensisheim: 1492 to 1992”. Meteoritics 27 (1): 28-72. Bibcode: 1992Metic..27...28M. doi:10.1111/j.1945-5100.1992.tb01056.x. ISSN 0026-1114.
- ^ “《荒野の聖ヒエロニムス》アルブレヒト・デューラー”. MUSEY. 2020年7月26日閲覧。
関連項目
編集- 直方隕石 - 861年5月19日(ユリウス暦)に福岡県直方市に落ちたとされる隕石。