エルトゥールル・オスマン
エルトゥールル・オスマン(オスマン語: ارطغرل عثمان、Ertuğrul Osman (Osmanoğlu)、1912年8月12日 - 2009年9月23日)は、オスマン帝国の帝家であったオスマン家の第43代家長。オスマン帝国皇族として生まれた最後の家長である。
エルトゥールル・オスマン ارطغرل عثمان | |
---|---|
オスマン家 | |
出生 |
1912年8月12日 オスマン帝国、イスタンブール、ユルドゥズ宮殿 |
死去 |
2009年9月23日(97歳没) トルコ、イスタンブール |
配偶者 | ガルダ・トゥワースコイ |
ゼイネップ・タルズィー | |
父親 | メフメト・ブルハネッティン |
母親 | アリエ・メレク・ナズリャル・ハヌム・エフェンディ |
生涯
編集帝国末期の1912年、イスタンブールのユルドゥズ宮殿で、アブデュルハミト2世の第8子メフメト・ブルハネッティン皇子の末子として生まれた。オーストリアのウィーンに留学して教育を受けたが、1924年にトルコ共和国政府によってアブデュルメジト2世がカリフの地位を廃され、オスマン家の全構成員に国外退去命令が発せられたため、帰国することができなくなった。
フランスのパリ政治学院に学んだ後、1939年に家族とともにアメリカ合衆国に移住し、1952年に南米諸国で鉱山を経営するカナダ企業に入社した。トルコではオスマン家の国外退去処分が解除されたが、エルトゥールルはトルコ共和国の国籍を得ることを望まず、アメリカに留まり続けた。後半生はニューヨークに居住していた。彼が追放後初めてトルコに帰国したのは、1992年、トルコ政府の招きにより、特別にトルコ訪問を許された時である。その後、9.11後アメリカの出入国審査が厳しくなったために、2004年にトルコ共和国のパスポートを取得した。
1985年に南アフリカ出身の最初の妻と死別した後、1991年に約30歳年下で、トルコに亡命したアフガニスタン・バーラクザイ朝の王族とトルコ人女性の間に生まれたゼイネップ・タルズィーと再婚した。
1994年、従兄でオスマン家第42代家長のメフメト・オルハンが没したため、オスマン家の存命最年長の男子となり、オスマン家の家長の座に就いた。名目上の皇帝としてはエルトゥールル2世となった。
2009年9月23日、腎不全の為イスタンブール市内の病院で死去[1] 、97歳没。エルトゥールルの死去に伴い、新たにオスマン家最年長となったアブデュルメジト1世の孫シェフザーデ・イブラヒム・テブフィク・エフェンディ皇子の三男バヤズィット・オスマンが第44代家長の座についた。
系図
編集アブデュルハミト2世-メフメト・ブルハネッティン-エルトゥールル
脚注
編集- ^ TODAY'S ZAMAN (2009年9月24日). “Osmanoğlu, the eldest Ottoman dynasty member, passes away”. 2009年9月25日閲覧。
|
|