エドモントン・オイラーズ
エドモントン・オイラーズ(Edmonton Oilers)は、カナダ・アルバータ州エドモントンを本拠としているナショナルホッケーリーグ(NHL)所属のプロアイスホッケーチームである。
エドモントン・オイラーズ Edmonton Oilers | |
カンファレンス | ウェスタン・カンファレンス |
ディビジョン | パシフィック・ディビジョン |
創設年 | 1972年 (1979年にNHL加入) |
歴代チーム名 | アルバータ・オイラーズ (1972 - 1973) エドモントン・オイラーズ (1973 - ) |
ホームアリーナ | ロジャーズ・プレイス |
ホームタウン | カナダ アルバータ州エドモントン |
チームカラー | オレンジ、ネイビーブルー、白 |
メディア | |
オーナー | ダリル・カッツ |
GM | ケン・オランド |
ヘッドコーチ | デイヴ・ティペット |
キャプテン | コナー・マクデイヴィッド |
獲得タイトル(獲得年) | |
スタンレーカップ優勝 (5回) | |
1984・1985・1987・1988・1990 | |
アブコワールド (0回) | |
なし | |
カンファレンス優勝 (8回) | |
1983・1984・1985・1987・1988・1990・2006・2024 | |
ディビジョン優勝 (9回) | |
1979・1983・1984・1985・1987・1988・1990・1991 1992 | |
プレジデンツトロフィー (2回) | |
1986・1987 |
歴史
編集1972年にアルバータ・オイラーズとしてWHA(ワールドホッケーアソシエイション)の創立メンバーとなる。創立時のオーナーはビル・ハンター(Bill Hunter) 。ハンターは従前はエドモントン・オイル・キングスのオーナーであり、後の西部ホッケー・リーグ (Western Hockey League) の創立者でもあるが、彼のエドモントンへのプロホッケーチーム誘致はNHLに頑として拒絶され続けた。アルバータ・オイラーズという名の元々の命名理由は、カルガリー・ブロンコス (Calgary Broncos) の解散後において、アルバータ州の2大都市であるエドモントン、カルガリー双方でのホームゲーム開催を企図していたこととされる。もっとも、チームはエドモントンのみで全興行を行ったが、これは財政上の理由やNHLかWHAのいずれかがカルガリーへ進出するのを容易ならしめるためといわれている。翌年には実態を反映させるために「エドモントン」・オイラーズへと改名。
1978年になって、新オーナーのピーター・ポクリントン (Peter Pocklington) は、球団存続を断念したインディアナポリス・レイサーズ (Indianapolis Racers) から、当時まだ新人だったのちのスーパースター、ウェイン・グレツキーを獲得した。グレツキーは間もなく閉鎖されるWHAの最後の新人王となり、チームはウィニペグ・ジェッツ、ハートフォード・ホエーラーズ 及びケベック・ノルディクス とともにNHLに参画した。
オイラーズは、グレツキー、マーク・メシエやケビン・ロー (Kevin Lowe) ら有力若手選手を擁し、NHL参加1年目からスタンレー・カッププレイオフ進出を達成し, その名をリーグに轟かせた。このプレイオフではフィラデルフィア・フライヤーズに3敗と敗れ、またポール・コフィーやヤリ・クリが加入した2年目のレギュラーシーズンの順位は月並みに終わったが、1981年のプレーオフ1回戦では、絶大な人気を誇ったモントリオール・カナディアンズを3勝0敗で破る大番狂わせを演じた。
1981-1982 シーズンでは、レギュラーシーズンでリーグ最高の成績を収めたものの、若いチームゆえに自らを見失って地区準決勝で敗退した。1983年は初めてスタンレー・カップ決勝に進出したが、3度の優勝経験を持つニューヨーク・アイランダーズの前に1勝3敗で屈した。しかし、その1年後、4勝1敗でアイランダーズを下し、スタンレー・カップ初優勝を決めた。
これが1980年代の「アルバータ王朝時代」、すなわちエドモントンとカルガリー・フレームスがその後5シーズンに渡ってリーグトップの座を巡ってしのぎを削る時代の幕開けとなった。エドモントンは1985年に再びカップ優勝を成し遂げたが、1986年の西部地区(当時はキャンベル地区)決勝の第7試合では宿敵フレームスに痛恨のオウンゴールで敗退、フレームスのカップ決勝(優勝はモントリオール)進出を許した。
1987年はエドモントンは再度カップ決勝に進出し4勝3敗の僅差でフィラデルフィア・フライヤーズを下した。また1988年にはスタンレー・カップを通じて18試合中僅か2敗と無類の強さを見せ、ボストン・ブルーインズを破って過去5年間で4回目の優勝を飾った。
しかし1988年の夏には、グレツキーが金銭1,500万ドルと2選手との交換トレードでロサンゼルス・キングスへ移籍することとなった[1]。この移籍問題はカナダ議会での議題にあがった。この移籍騒動によって1989年のシーズンは混乱続きとなり、エドモントンは1982年以来初めて地区決勝に進出を果せず、またキングスも同様の混乱によって7戦方式のシリーズに敗退した。
続く1990年もエドモントンには混乱が続く。とりわけオールスター選抜選手で将来の殿堂入りを目されたゴーリーのグラント・フューアがコカインの所持及び使用で告発されたことは痛手であった。しかしチームは新ゴーリーのビル・ランフォードに続いて勢いを盛り返し、地区でカルガリー、ロサンゼルスに次ぐ成績であったにもかかわらず、5度目のカップ決勝に進出し4勝1敗でボストン・ブルーインズを下した。ゴーリーのランフォードはこの時の目覚しい活躍によりプレーオフ最優秀選手賞を獲得している。
しかし徐々にチームには衰微の兆しが現れ始めていた。グレツキーの移籍はNHLにおける急激な年俸の高騰という新たな現実をもたらし、エドモントンのような市場規模の小さなチームは、もはやアメリカ合衆国大都市のチームが提示する高額年俸とは競争ができなくなりつつあった。マーク・メシエ、ヤリ・クリ、ランフォードやグレン・アンダーソン (Glenn Anderson) らの有力選手はすべて相次いでチームを去り、残されたのは実績の少ない若手選手ばかりとなった。1991年と1992年には、地区決勝に進出したものの、オイラーズは過去5年間を支配した往時の面影はなかった。1993年にはリーグ参加以来初めてプレイオフ進出を逃し、その後4年間はプレイオフに姿を見せない低迷が続いた。
オーナーであるポクリントンの所有する精肉会社ゲイナーズ (Gainers) がスキャンダルと不正行為の追及を受け倒産するなど、氷上外でもトラブルは続いた。1990年代のオイラーズはチームの存亡をかけて死に物狂いであった。1999年、ついに37のオーナーから構成されるコンソーシアムがチームを買収し、エドモントンでのチーム存続を明言した。短期間に2つのカナダのチームを失うという事態を深く憂慮したNHLの努力によって、オイラーズはこの支援を受け続けている。
1997年にはオイラーズはプレイオフに久々出場を果たし勝利を重ねた。特に7戦までもつれたダラス・スターズを破ったシリーズは当時の最もエキサイティングな試合の1つといわれ、延長戦において追いすがる敵をかわして決めたゴールで勝利した。次のラウンドではコロラドに敗れはしたものの、オイラーズのプレーオフへの復活に陶然となったと伝えられる。
1998年はエドモントンはプレイオフ2回戦でダラスと再び合いまみえたが、急速に力をつけつつあったダラスの勝利に終わる。ここに、ホッケー史上稀に見る熾烈なライバル関係が始まる。1997年から2003年までの間、実にプレーオフで両者は6度顔を合わせ、そのうち5試合は1回戦での対戦であった。2002年こそ対戦はなかったが、これは両チームともにプレーオフ進出を果せなかったためである。2004年には、この拮抗状態が敗れエドモントンはプレーオフ進出がならなかったが、他方ダラスは進出しコロラド・アバランチと対戦している。
2003年11月22日オイラーズは、NHL初の野外試合、「ヘリテージ・クラシック (Heritage Classic)」を主催した[2]。NHL観客動員数最高の55,000人超の観客をエドモントンのコモンウェルス・スタジアムに集めたこの試合で、オイラーズはモントリオール・カナディアンズに4対3で敗れた。
2004年1月23日オイラーズは、AHLに属するマイナーチームのトロント・ロードランナーズが2004 - 2005シーズンの試合を本拠地のレクソール・プレイスで開催すると発表した。これは、NHLの同シーズンが2004年から2005年のNHLロックアウトにより試合中止となることを受けたものである。
2005-06シーズン、オイラーズはカンファレンス8位とぎりぎりのラインでプレイオフに進出し、1回戦でシーズン最多勝ち点を獲得したチームに与えられるプレジデント・トロフィーを獲得したデトロイト・レッドウイングスと対戦した。大方の予想を裏切りレッドウイングスを破り、2回戦でサンノゼ・シャークスを破り、カンファレンス決勝でアナハイム・マイティダックスを破り、プレイオフのフォーマットが変更されてから初めての「第8シードからスタンレーカップ決勝進出」したチームとなった。 スタンレーカップ決勝ではエースゴーリーのドウェイン・ロロソンを第1戦の怪我で欠きながらも第7戦までもつれ込ませるが、惜しくもカロライナ・ハリケーンズに破れスタンレーカップ獲得を逃している。
オイラーズはダウンタウン・エドモントンに建設中のロジャーズ・プレイスを2016-17シーズンに移転する予定である[3][4]。
シーズン別の成績
編集アルバータ/エドモントン・オイラーズ (WHA時代 1972年 - 1979年)
編集年 | GP | W | L | T | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレイオフ |
1972-73 | 78 | 37 | 35 | 6 | 259 | 250 | 80 | ウェスト4位 | 不参加 |
1973-74 | 78 | 44 | 32 | 2 | 332 | 275 | 90 | ウェイト3位 | 初戦敗退 (ミネソタ・ファイティングセインツ) |
1974-75 | 78 | 36 | 38 | 4 | 279 | 279 | 76 | セントラル5位 | 不参加 |
1975-76 | 81 | 27 | 49 | 5 | 335 | 398 | 53 | セントラル4位 | 準々決勝敗退 (ウィニペグ・ジェッツ) |
1976-77 | 81 | 34 | 43 | 4 | 243 | 304 | 72 | ウェスト4位 | 準々決勝敗退 (ヒューストン・アエロズ) |
1977-78 | 80 | 38 | 39 | 3 | 309 | 307 | 79 | 5位 | 初戦敗退 (ニューイングランド・ホエールズ) |
1978-79 | 80 | 48 | 30 | 2 | 340 | 266 | 98 | 1位 | 決勝敗退 (ウィニペグ・ジェッツ) |
エドモントン・オイラーズ (NHL時代 1979年 - )
編集年 | GP | W | L | T | OL | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレイオフ |
1979-80 | 80 | 28 | 39 | 13 | - | 301 | 322 | 69 | スマイス4位 | 初戦敗退 (PHI) |
1980-81 | 80 | 29 | 25 | 16 | - | 328 | 327 | 74 | スマイス4位 | 準々決勝敗退 (NYI) |
1981-82 | 80 | 48 | 17 | 15 | - | 417 | 295 | 111 | スマイス1位 | 地区準決勝敗退 (LA) |
1982-83 | 80 | 47 | 21 | 12 | - | 424 | 315 | 106 | スマイス1位 | スタンレー・カップ決勝敗退 (NYI) |
1983-84 | 80 | 57 | 18 | 5 | - | 446 | 314 | 119 | スマイス1位 | スタンレー・カップ優勝 |
1984-85 | 80 | 49 | 20 | 11 | - | 401 | 298 | 109 | スマイス1位 | スタンレー・カップ優勝 |
1985-86 | 80 | 56 | 17 | 7 | - | 426 | 310 | 119 | スマイス1位 | 地区決勝敗退 (CGY) |
1986-87 | 80 | 50 | 24 | 6 | - | 372 | 284 | 106 | スマイス1位 | スタンレー・カップ優勝 |
1987-88 | 80 | 44 | 25 | 11 | - | 363 | 288 | 99 | スマイス2位 | スタンレー・カップ優勝 |
1988-89 | 80 | 38 | 34 | 8 | - | 325 | 306 | 84 | スマイス3位 | 地区準決勝敗退 (LA) |
1989-90 | 80 | 38 | 28 | 14 | - | 315 | 283 | 90 | スマイス2位 | スタンレー・カップ優勝 |
1990-91 | 80 | 37 | 37 | 6 | - | 272 | 272 | 80 | スマイス3位 | カンファレンス決勝敗退 (ミネソタ・ノーススターズ) |
1991-92 | 80 | 36 | 34 | 10 | - | 295 | 297 | 82 | スマイス3位 | カンファレンス決勝敗退 (CHI) |
1992-93 | 84 | 26 | 50 | 8 | - | 242 | 337 | 60 | スマイス5位 | 不参加 |
1993-94 | 84 | 25 | 45 | 14 | - | 261 | 305 | 64 | 太平洋6位 | 不参加 |
1994-95 | 48 | 17 | 27 | 4 | - | 136 | 183 | 38 | 太平洋5位 | 不参加 |
1995-96 | 82 | 30 | 44 | 8 | - | 240 | 304 | 68 | 太平洋5位 | 不参加 |
1996-97 | 82 | 36 | 37 | 9 | - | 252 | 247 | 81 | 太平洋3位 | カンファレンス準決勝敗退 (COL) |
1997-98 | 82 | 35 | 37 | 10 | - | 215 | 224 | 80 | 太平洋3位 | カンファレンス準決勝敗退 (DAL) |
1998-99 | 82 | 33 | 37 | 12 | - | 230 | 226 | 78 | 北西2位 | カンファレンス準々決勝敗退 (DAL) |
1999-00 | 82 | 32 | 26 | 16 | 8 | 226 | 212 | 88 | 北西2位 | カンファレンス準々決勝敗退 (DAL) |
2000-01 | 82 | 39 | 28 | 12 | 3 | 243 | 222 | 93 | 北西2位 | カンファレンス準々決勝敗退 (DAL) |
2001-02 | 82 | 38 | 28 | 12 | 4 | 205 | 182 | 92 | 北西3位 | 不参加 |
2002-03 | 82 | 36 | 26 | 11 | 9 | 231 | 230 | 92 | 北西4位 | カンファレンス準々決勝敗退 (DAL) |
2003-04 | 82 | 36 | 29 | 12 | 5 | 221 | 208 | 89 | 北西4位 | 不参加 |
2005-06 | 82 | 41 | 28 | - | 13 | 256 | 251 | 95 | 北西3位 | スタンレー・カップ決勝敗退 (CAR) |
2006-07 | 82 | 32 | 43 | - | 7 | 195 | 248 | 71 | 北西5位 | 不参加 |
2007-08 | 82 | 41 | 35 | - | 6 | 235 | 251 | 88 | 北西4位 | 不参加 |
2008-09 | 82 | 38 | 35 | - | 9 | 234 | 248 | 85 | 北西4位 | 不参加 |
2009-10 | 82 | 27 | 47 | - | 8 | 214 | 284 | 62 | 北西5位 | 不参加 |
2010–11 | 82 | 25 | 45 | - | 12 | 193 | 269 | 62 | 北西5位 | 不参加 |
2011–12 | 82 | 32 | 40 | - | 10 | 212 | 239 | 74 | 北西5位 | 不参加 |
2012–13 | 48 | 19 | 22 | - | 7 | 45 | 125 | 134 | 北西3位 | 不参加 |
2013–14 | 82 | 29 | 44 | - | 9 | 67 | 203 | 270 | 太平洋7位 | 不参加 |
2014–15 | 82 | 24 | 44 | - | 14 | 62 | 198 | 283 | 太平洋6位 | 不参加 |
脚注
編集- ^ “Former Oilers owner Peter Pocklington avoids prison”. CBC (2013年12月6日). 2015年2月23日閲覧。
- ^ “Theodore makes 34 saves, fashion statement”. ESPN (2003年11月22日). 2015年2月23日閲覧。
- ^ Rogers Place
- ^ http://www.theprovince.com/sports/Council+approves+revised+downtown+Edmonton+arena+deal/7861481/story.html