エッペンシュタイン家
エッペンシュタイン家(ドイツ語: Eppensteiner)は、中世ドイツにおいてケルンテン公を世襲した貴族の家系。オーストリア国旗として知られる赤・白・赤の旗はもともとエッペンシュタイン家が用いたものであり、1122年に同家が断絶した後、シュタイアーマルクのオタカール家が領土とともに旗も継承し、オタカール家が1192年に断絶した後は、オーストリア公のバーベンベルク家がさらに継承した[1]。
概要
編集家名はシュタイアーマルクのオプダッハ(Obdach)にあったエッペンシュタイン城から名付けられた。バイエルン発祥であり、ユーデンブルク付近を拠点とした。マルクヴァルト3世(970年以前 - 1000年頃)が最初にシュタイアーマルク辺境伯となった。
アダルベロは広大な領土を確保し、1000年頃にケルンテン辺境伯に、そして1012年にはケルンテン公に任ぜられた。1035年に退位させられ、4年後に死去した。アダルベロの息子マルクヴァルト4世(1076年没)は、広大な領土を継承し、ケルンテンの事実上の支配者となった。その息子ルイトポルト(1090年没)は、1077年にハインリヒ4世により再びケルンテン公およびヴェローナ辺境伯に任ぜられた。ルイトポルトは弟ハインリヒとともに、バンベルク、ザルツブルクおよびアクイレイアまで勢力を拡大させようとした。父マルクヴァルトとハインリヒはシュタイアーマルクにザンクト・ランブレヒト修道院を創設し、修道院は文化の中心となった。
1122年、ハインリヒの死去によりエッペンシュタイン家は断絶した。上シュタイアーマルクの領地は従兄弟オタカール2世(1122年没)およびその息子レオポルトに継承された。ケルンテン公領は親族のシュポンハイム家の手に渡った。
系図
編集マルクヴァルト1世 フィーバッハガウの伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルクヴァルト2世 フィーバッハガウの伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルクヴァルト3世 (-1000) ケルンテン辺境伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アダルベロ (980-1039) ケルンテン辺境伯 ケルンテン公 | ベアトリクス (シュヴァーベン公ヘルマン2世娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルクヴァルト4世 (-1076) | アダルベロ (-1057) バンベルク司教 | ヴィリビルク =シュタイアーマルク辺境伯オットカール1世 | 娘 1=ズアラフェルトガウ伯クノ2世 2=ディーセン伯オットー1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リウトルト (ルイトポルト) (-1090) ケルンテン公 | ハインリヒ3世 (-1122) ケルンテン公 | ゾフィー (?-1154) (オーストリア辺境伯レオポルト2世娘) | ブルクハウゼン伯ジクハルト (?-1142) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ Hermann Wiesflecker: Österreich im Zeitalter Maximilians I.: die Vereinigung der Länder zum frühmodernen Staat; der Aufstieg zur Weltmacht, Wien/München 1999, S. 138 f.