ウード2世 (トロワ伯)
ウード2世(フランス語:Eudes II, 1040年ごろ - 1115年)[1]は、トロワ伯およびモー伯(在位:1047年 - 1066年)、およびオマール伯(在位:1069年 - 1115年)。ウード3世ともいわれる。
ウード2世 Eudes II | |
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トロワ伯 モー伯 | |
在位 | 1047年 - 1066年 |
出生 |
1040年ごろ |
死去 |
1115年 |
配偶者 | アデライード・ド・ノルマンディー |
子女 | エティエンヌ |
家名 | ブロワ家 |
父親 | トロワ伯エティエンヌ2世 |
母親 | アデル |
生涯
編集ウードはトロワ伯エティエンヌ2世とアデルの息子である[2]。父が死去した時ウードは幼少で、伯父ティボー3世がトロワ伯領の摂政となった[3]。
1060年、ウードはノルマンディー公ロベール1世の娘でポンチュー伯・オマール領主アンゲラン2世およびランス伯ランベール2世の未亡人アデライードと結婚した[1]。アンゲラン2世の一人娘アデライードが死去した後、母アデライード・ド・ノルマンディーが娘の領地の継承者となり、ウードはアデライードとの結婚を通して、妻の権利によりオマール伯となった[4]。
妻アデライードはイングランド王ウィリアム1世の妹であり[1]、ウードは義兄に従い1066年にノルマン・コンクエストに参加した[4]。伯父ティボー3世はその間にウード2世のシャンパーニュの領地を奪った[5]。ウィリアム1世はノルマン・コンクエストにおけるウードの奉仕に対し、ヨークシャーのホルダーネスをウードに与えたという[4]。また別の説ではホルダーネスは1087年にウィリアム1世の妹アデライードに与えられ、ウードは妻の権利によりホルダーネス伯となったという。
ウードはアラン・ルーフスやポンチュー伯ロジェとともに、1088年の反乱の後にダラム城のギヨーム・ド・サン=カレを包囲するためにイングランド王ウィリアム2世により派遣され、ギヨームの安全を保証した。
ウードは息子エティエンヌをイングランド王位につける陰謀に関与した[6]。エティエンヌはイングランド王ウィリアム2世やノルマンディー公ロベール2世の従兄弟であった[7]。エティエンヌはウィリアム2世の手の届かない所にいたため、裁判にはかけられなかった[8]。ウードはこの共謀によりイングランドの領地を失ったが[9]、ウィリアム2世の死の2年後にこれらの領地はエティエンヌに与えられた。
家族
編集ウードはアデライード・ド・ノルマンディーとの間に1男エティエンヌをもうけた[10]。
1902年、リチャード・ラングリッシュはウードがアイルランドのル・グラス家の先祖であるという論文を発表した[4]。これはレイモンド・フィッツジェラルド(1185/98年没)が家祖であるという説を修正するものであった[11]。リチャード・ローチ(1970年)は以前の説を支持したが、M. T.・フラナガン(2004年)はレイモンド・フィッツジェラルドの嫡出子が確認できないことから、ローチの説に異議を唱えた[12][13]。
脚注
編集- ^ a b c Bates 2004.
- ^ Evergates 1999, p. 12.
- ^ Pierre Bauduin, La première Normandie (xe-xie siècles), pp. 313-316.
- ^ a b c d Langrishe 1902, p. 64-67.
- ^ Bouchard 2004, p. 138.
- ^ C. Warren Hollister, 'Magnates and Curiales in Early Norman England', Viator, Vol. 8, No. 1 (1977), p. 68
- ^ David Crouch, The Normans; The History of a Dynasty (London; New York: Hambledon Continuum, 2007), p. 147
- ^ Frank Barlow, William Rufus (London: Methuen, 1983), p. 358
- ^ C. Warren Hollister, 'Magnates and Curiales in Early Norman England', Viator, Vol. 8, No. 1 (1977), p. 70
- ^ Barlow 1983, p. 272.
- ^ Langrishe 1900, p. 319-324.
- ^ Roach 1970, p. 180.
- ^ Flanagan 2004.
参考文献
編集- Bouchard, Constance Brittain (2004). “The Kingdom of the Franks to 1108”. The New Cambridge Medieval History. 4, Part 2. Cambridge University Press
- Barlow, Frank (1983), William Rufus (illustrated ed.), University of California Press, p. 272, ISBN 0-520-04936-5
- Flanagan, M. T. (September 2004). "Fitzgerald, Raymond fitz William (d. 1189x92)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/9582. 2010年8月24日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- Evergates, Theodore, ed (1999). Aristocratic Women in Medieval France. University of Pennsylvania Press
- Flanagan, M. T. (September 2004). "Fitzgerald, Raymond fitz William (d. 1189x92)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/9582. 2010年8月24日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- Langrishe, Richard (31 December 1900), “The Origin of the Grace Family of Courtstown, County of Kilkenny, and of Their Title to the Tullaroan Estate”, The Journal of the Royal Society of Antiquaries of Ireland, 5 30 (4): 319–324, JSTOR 25507087
- Langrishe, Richard (31 March 1902), “The Origin of the Grace Family of Courtstown, County Kilkenny. (No 2)”, The Journal of the Royal Society of Antiquaries of Ireland, 5 32 (1): 64–67, JSTOR 25507186
- Roach, Richard (1970), The Norman Invasion of Ireland, Anvil Books, ISBN 0-947962-81-6.
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