センベーヌ・ウスマン(セネガルの姓名は日本と同じ順序となり、センベーヌが姓。 Sembène Ousmane, 1923年1月1日 - 2007年6月9日)は、セネガル映画監督作家。「アフリカ映画の父」とも呼ばれた。

センベーヌ・ウスマン
Sembène Ousmane
センベーヌ・ウスマン Sembène Ousmane
生年月日 (1923-01-01) 1923年1月1日
没年月日 (2007-06-09) 2007年6月9日(84歳没)
出生地 カザマンス ジガンショール
死没地 ダカール
国籍 セネガルの旗 セネガル
職業 作家映画監督脚本家
活動内容 小説映画
主な作品
『黒人女』(1966年)
『ハラ(不能者)』(1974年)
母たちの村』(2004年)
受賞
カンヌ国際映画祭
「ある視点」賞
2004年母たちの村
功労賞
2005年
ヴェネツィア国際映画祭
審査員特別賞
1988年Camp de Thiaroye
上院議会金メダル
1992年Guelwaar
全米映画批評家協会賞
外国語映画賞
2004年母たちの村
その他の賞
ジャン・ヴィゴ賞
1966年黒人女
モスクワ国際映画祭
名誉賞
1979年
サンフランシスコ国際映画祭
黒澤明賞
1993年
BFIフェローシップ賞
2005年
テンプレートを表示

生涯

編集

セネガルがフランスの植民地だった1923年、ジガンショールに住むウォロフ族の家庭に生まれる。学校でフランス語アラビア語を学ぶが、1936年には放校処分にあう。19歳にはフランス軍に狙撃兵として召集され、第2次世界大戦を戦った。1948年、25歳のときにフランスへ渡り、マルセイユで働きながらフランス語を独学で身につけ、ロジェ・マルタン・デュ・ガールなどの小説を読む。

1956年、自伝的要素の強い小説『黒人沖仲仕』を自費出版で発表し、アフリカ人の港湾労働者の過酷な生活を伝えた。この小説は雑誌「プレザンス・アフリケーヌ」で取り上げられ好評を呼ぶ。しかし、センベーヌ自身の母親をはじめとしてセネガルではフランス語を読めない人々が多かった。このためセンベーヌは、口承文芸の伝統をもつ社会では、書き言葉の文学に限界があると考えるようになる。そこでモスクワゴーリキー・スタジオで1年間映画技術を学び、小説の執筆とともに映画制作をはじめる。

初の短篇映画 Borom Sarret を製作後、上映装置をもって各地で上映活動を行なう。この映画は、サハラ以南のアフリカ人監督による映画としては、はじめて高い評価を受けた。また Mandabi ではセネガルの自国語であるウォロフ語を使い、好評を呼んだ。反骨精神で知られ、それ以後もアフリカ社会の問題を題材とした小説や映画の発表を続けた。

1984年の『エミタイ』上映、1989年の『チェド』上映の際に来日している。

作品

編集

近代化と伝統文化の関係、抑圧に対する抵抗を主題とする。『セネガルの息子』では農村、『神の森の木々フランス語版』では鉄道労働者とストライキ、『ハラ(不能者)フランス語版』ではエリートの腐敗、 Guelwaar ではムスリムとキリスト教徒の対立と葛藤、 Camp de Thiaroye ではフランス軍によるセネガル兵士虐殺事件、『エミタイフランス語版』では植民地軍に抵抗するディオラ族、『帝国の最後の男』では支配者の没落が描かれている。

女性による抵抗にも注目し、『タアウ』では一夫多妻の家庭から自立しようとする第1夫人と、その息子と恋人が登場する。ムスリムや奴隷貿易による伝統社会の崩壊を取り上げた『チェド』では、部族の王女を中心に抵抗の精神を描いている。『母たちの村』では女性器切除(Female Genital Mutilation)に反対する女性を主人公とし、カンヌ国際映画祭をはじめ国際的に高く評価された。

映画『チェドフランス語版』は、現代の綴りの ceddod がひとつ多いというクレームをサンゴール大統領から受け、サンゴールの在任中はセネガルでの上映を禁止されていた。

主な著作

編集

主な監督作品

編集

他の監督による映像化作品

編集

参考文献

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集