ウォートン・ホール
ウォートン・ホール(英語: Wharton Hall)は、イングランドのカンブリア州イーデンにある中世における要塞化したマナー・ハウスである。
ウォートン・ホール | |
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現地名 英語: Wharton Hall | |
ウォートン・ホール | |
種類 | マナー・ハウス(要塞化) |
所在地 | イーデン、カンブリア州、イングランド |
座標 | 北緯54度27分02秒 西経2度21分17秒 / 北緯54.4505度 西経2.3547度座標: 北緯54度27分02秒 西経2度21分17秒 / 北緯54.4505度 西経2.3547度 |
建築様式 | 中世様式(石灰岩) |
指定建築物 – 等級 I | |
歴史
編集ウォートン・ホールの心臓部は、15世紀に英国議会の下院議員を務めたリチャード・ウォートンと思われる地元のウォートン家によって地元にある石灰岩を用いて建てられたと思われる[1]。1536年にイングランドで起きた民衆反乱である恩寵の巡礼の間、このマナー・ハウスは政治指導者のロバート・アスクの軍隊に包囲され、1544年以降に初代ウォートン男爵トマス・ウォートンが守衛詰所、大広間、台所、および中世様式の囲壁を形成したマナー・ハウスの拡張強化を行った[1]。拡張強化を行った結果、長さが68フィート (21 m)を誇る大広間のある豪華な不動産物件となったのである[2]。
1568年7月14日、廷臣サー・フランシス・ノールズは、ローサー城からウォートン・ホールまでスコットランド女王であるメアリー1世を護衛し、翌日にはメアリー1世がボルトン城を訪れた[3]。1617年8月8日、メアリー1世の息子であるジェームズ1世がスコットランド訪問の帰りにウォートン・ホールに滞在した[4]。
16世紀以降、ウォートン家は英国ノース・ヨークシャー州セルビー地区タッドキャスター近くのヒーロウ・パーク修道院を主要住居とすることを好むようになり、ウォートン・ホールは次第に荒廃していった。1785年に初代ロンズデール伯爵ジェイムズ・ラウザーが狭間胸壁を加えて、建築物を修復させた[5]。20世紀になって再度の修復が行われ、現在の状態となっている[5]。
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b エメリー, pp.255-256.
- ^ テイラー, p.169.
- ^ Joseph Bain, Calendar State Papers Scotland, vol. 2 (Edinburgh, 1900), pp. 456-7.
- ^ HMC Downshire, vol. 6 (London, 1995), p. 141 no. 308.
- ^ a b エメリー, p.256.
- ^ Historic England. "Wharton Hall (1137207)". National Heritage List for England (英語). 2015年7月10日閲覧。
参考文献
編集- アンソニー・エメリー(1996年):Greater Medieval Houses of England and Wales, 1300-1500: Northern England. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-49723-7.
- マイケル・ウェイステル・テイラー(1892年):Old Manorial Halls of Westmorland and Cumberland. Kendal: T. Wilson. OCLC 22355479.