イヴァン・ヴィホーウシキー
イヴァン・ヴィホーウシキー(ウクライナ語:(ウクライナ語: Іва́н Виго́вський;? ‐1664年3月27日)は、ウクライナの政治家、軍人。ドニプロ・ウクライナを中心としてコサック国家の元首、ザポロージャ・コサックの将軍(1657年‐1659年)[1]。正教徒のルーシ系の貴族、ヴィホーウシキー家の当主。オスタープ・ヴィホーウシキーの息子。
イヴァン・ヴィホーウシキー | |
---|---|
紋章 | |
称号 | 将軍(1657年‐1659年)[1] |
身分 | 貴族 |
家名 | ヴィホーウシキー家 |
民族 | ウクライナ人[1] |
生没 | ? ‐1664年3月27日[1] |
出生 | ウクライナ、オーヴルチ地方[1] |
死亡 | ウクライナ、ヴィリホーヴェツィ村[1] |
宗教 | 正教徒[1] |
概要
編集ポーランド・リトアニア共和国キエフ県のオーヴルチ地方で生まれた[1]。正教のキエフ兄団学校を卒業後、キエフとルーツィクの裁判所で勤め、ルーツィクの副代官となった[1]。その後、ポーランド・リトアニアの国軍に入隊し、騎兵大尉まで昇進した[1]。1648年にフメリニツキーの乱が勃発すると、ポーランド・リトアニア軍の一員としてジョーウチ・ヴォーディの戦いに参加した。合戦中にタタールの捕虜となったが、コサックの将軍ボフダン・フメリニツキーによって解放された[2]。その後、コサック側に味方して将軍の書記官となった。1650年に将軍に才覚が認められ、コサック国家の内相・外相にあたるコサック全軍の書記官に抜擢された。コサックの政府となる全軍官庁を組織した[1]。プィリャーウツィの戦い(1648年)、ズバーラジュの包囲、ズボーロウの戦い(1649年)、ベレステーチュコの戦い(1651年)、バチーフの戦い(1652年)、ジュヴァーネツィの包囲(1653年)、オフマトーウの戦いとリヴィウの包囲(1655年)などに参加した。ズボーリウ条約、ビーラ・ツェールクウァ条約、ペレヤースラウ条約の創作に関わった[1]。1657年4月にボフダン・フメリニツキー将軍が死去すると、新たな将軍となった幼い子息ユーリー・フメリニツキーの執権となった。同年7月26日にユーリーが成人するまでにコサック将軍の位が譲られ、10月26日にコールスニのコサック全軍会議において新たな将軍として選ばれた。1658年5月31日に反旗を翻したポルターヴァ連隊を厳しく鎮圧したが、ロシア・ツァーリ国が支援するコサック野党を抑えることができなかった[2]。ロシアとの戦争が迫る中で、ポーランド・リトトアニア共和国とハーデャチ条約を結び、コサックのウクライナをルーシ大公国としてポーランド・リトアニア共和国に合同させた[1]。条約により、ルーシ将軍およびチヒリーンの代官という称号を賜った[2]。ウクライナ・ロシア戦争(1658年‐1659年)の際、クリミア・ハン国と同盟を結び、コノトプでロシアの軍勢を破ったが、ハーデャチ条約により「ポーランド人にウクライナを売国した」という不満を持つコサックの支持を失った[1][2]。1659年9月にユーリー・フメリニツキーに将軍の座を譲り、ポーランド・リトアニア共和国へ移住した。その後、キエフ県知事の位を受け、ヴォルィーニ地方とガリツィア地方で暮らした。1660年にポーランド・リトアニア軍に従軍し、チュードニウの戦いに参加した。1662年に正教のリヴィウ兄団に入団した[1]。1663年にユーリー・フメリニツキーが将軍の座を辞任すると、右岸ウクライナのコサック将軍を決める選挙に立候補したが、パウロー・テテーリャに負けた。1664年に右岸ウクライナで勃発した反ポーランドの蜂起に内通した。同年の春、ポーランド人とテテーリャのコサックに逮捕された。3月17日の夜にヴィリホベツィ村の周辺において、裁判なしで処刑された[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
- 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
- ロシア語: Гетманство Выговского // Костомаров Н. И. Собрание сочинений: Исторические монографии и исследования, т. 2. — СПб., 1872.
- ウクライナ語: Герасимчук В.І. Виговський і Юрій Хмельницький // Записки НТШ. — 1904, т. 59-60.
- ウクライナ語: Герасимчук В.І. Виговщина і Гадяцький трактат // Записки НТШ. — 1909, т. 87-89.
- ウクライナ語: Герасимчук В.І. Смерть Iвана Виговського // Ювілейний збірник на пошану академіка Михайла Сергієвича Грушевського. — Київ, 1928.
- ウクライナ語: Яковлева Т. Гетьманщина в другій половині 50-х років XVII століття: Причини і початок Руїни. — Київ, 1998.
- ウクライナ語: Мицик Ю.А. Iван Виговський. // Полководці Війська Запорозького: Iсторичні портрети. — кн. 1. — Київ: KM Academia, 1998.
- ウクライナ語: Степанков В.С. Виговський Iван Остапович // Енциклопедія історії України: Т. 1. — Київ:Наукова думка, 2003. — с.502—503.
- ウクライナ語: Коваленко С. Виговський Іван // Україна під булавою Богдана Хмельницького. Енциклопедія у 3-х томах. Том 1. — Київ: Стікс, 2007.
- ウクライナ語: Сокирко О. Конотопська битва 1659 р. Тріумф в час Руїни. — Київ, Темпора, 2008.