イブン・アル=ハティーブ
イブン・アル=ハティーブ(アラビア語: لسان الدين بن الخطيب、Ibn al-Khatib、全名:Muhammad ibn Abd Allah ibn Said ibn Ali ibn Ahmad al-Salmani、1313年11月 - 1375年[1])は、イベリア半島のイスラム国家ナスル朝の政治家、歴史家、詩人。
出自
編集生涯
編集1340年に父が戦死した後ユースフ1世に書記官に任命され、1349年に宰相(ワズィール)イブン・ジャイヤーブがペストで病死すると後任の宰相に任ぜられた[2]。ムハンマド5世の治世でも引き続き宰相職を務めるが、1359年8月に起きたクーデターによってムハンマド5世が廃位されると、国政の中心にあったアル=ハティーブも反乱者によって投獄される。マリーン朝のスルタン・アブー・サーリムの仲介によって解放された後[3]、ムハンマド5世と共にモロッコのフェズに亡命した。亡命中に歴史家イブン・ハルドゥーンと交流を持ち、復職後に彼のグラナダ移住を取り計らった。
ムハンマド5世が復位すると彼も復職し、フェズの宮廷で孤立したハルドゥーンがグラナダに移住した際にはムハンマド5世と共に彼を歓迎した。しかし、ハルドゥーンを快く思わない廷臣の讒言、ムハンマド5世の教育方針の不一致によってハルドゥーンとの仲は遠いものになり、彼はハルドゥーンが自発的に宮廷を離れるように仕向けた。ハルドゥーンがビジャーヤのハフス朝の王子の元に去ると、イブン・アル=ハティーブは改めて友好関係を築こうと努めてハルドゥーンに数度手紙を送るが、両者の関係は完全に修復されなかった[4]。
ハルドゥーンが去った後、イブン・アル=ハティーブはムハンマド5世の信任を一身に集めるようになると、他の廷臣は彼を陥れようと陰謀を巡らせる。宮廷内の陰謀に気が付いたイブン・アル=ハティーブはマリーン朝のスルタン・アブド・アル=アズィーズ1世を頼って1371年から1372年の間にトレムセンに亡命するが、廷臣たちは彼を裏切り者と非難し、ムハンマド5世も彼への疑念をつのらせるようになった。マリーン朝ヘイブン・アル=ハティーブの引き渡しを要求する使者が派遣され、アブド・アル=アズィーズは彼の引き渡しを拒んだが、政変によってムハンマド5世と密約を交わしたアブー・アル=アッバース・アフマドが即位すると、彼はグラナダに召喚された。グラナダで宗教裁判にかけられ、判決が出る前に獄中で斬殺された[5]。
歴史、地理、詩、医学の分野において60余りの著作を残し[2]、代表作に『グラナダ史』がある。また、行政の実務においても公文書の書式に改良を加える実績を挙げた[6]。
関連項目
編集- イブン・バットゥータ - イブン・バットゥータの1355年以降の生涯はほとんど知られていないが[7]、イブン・アル=ハティーブは、イブン・バットゥータがラバト近郊のターマスナーで法官のムタワッリー(意見のまとめ役)を務め、1368年/69年に在職中に没したことを伝えている[8]。