イットー
イットーとは日本の競走馬である。高松宮杯やスワンステークスの優勝馬で、1973年の優駿賞最優秀3歳牝馬、1975年に同最優秀5歳以上牝馬に選出された。繁殖牝馬としても大きな成功を収め、二冠牝馬ハギノトップレディ、宝塚記念優勝馬ハギノカムイオーらを輩出。「華麗なる一族」と称される牝系の中興の祖となった。
イットー | |
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品種 | サラブレッド |
性別 | 牝 |
毛色 | 黒鹿毛 |
生誕 | 1971年4月19日 |
死没 |
1997年5月21日 (26歳没・旧27歳) |
父 | ヴェンチア |
母 | ミスマルミチ |
母の父 | ネヴァービート |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
生産者 | 荻伏牧場 |
馬主 | (有)荻伏牧場 |
調教師 |
田中好雄(栗東) →田中良平(栗東) |
競走成績 | |
生涯成績 | 15戦7勝 |
獲得賞金 | 9809万6000円 |
半弟に重賞4勝を挙げたニッポーキング(父プロント)、シンザン記念優勝馬シルクテンザンオー(父ファーストドーン)、道営記念優勝馬サクラアケボノ(父ダイコーター)がいる。
出生・幼駒時代
編集母ミスマルミチは重賞未勝利ながら8勝を挙げた実力馬であり、繁殖初年度となった1970年も、本来は競走生活を続行する予定だった。しかし先に繁殖入りしていた半姉ヤマピット(第28回オークス優勝馬)がわずか1頭の産駒(ボージェスト)しか残さず早世したことを受け、5歳シーズンいっぱいで急遽引退、繁殖入りとなった[1]。交配されたヴェンチアは前年にフランスから輸入され、日本での供用初年度という新進種牡馬だった。
翌1971年4月19日にミスマルミチは牝駒を出産する。荻伏牧場社長の斎藤隆が、「出産補助のために仔馬の両前脚を掴んだ瞬間『これはただものではない』と直感した」と語る[2]ほどの好素質馬であった。荻伏牧場は生産馬を馬主に売却して生計を立てるマーケットブリーダーであったが、斎藤が惚れ込んだ本馬は、例外的に牧場所有のままで競走馬となった[3]。
馬名の由来
編集2歳秋まで荻伏で育成が積まれ、その後栗東トレーニングセンターの田中好雄厩舎に入る。田中もまた本馬の素質に感嘆し、命名をさせて欲しいと願い出た。これを了承されると、田中は本馬に「一刀両断」からイットーと命名した[1]。この馬名の大元の発案者は歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎であり、生前田中に馬を預けていた尾上は、「一生に一頭という馬に巡り会ったら、イットーと名付けるように」と提案していた[1]。なお、当初荻伏牧場が考えていた馬名は「ヤマトゴコロ」であった[1]。
戦績
編集最優秀3歳牝馬選出
編集1973年11月11日、京都競馬場でデビュー。当日は3番人気の評価であったが、母にも騎乗した高尾武士を背に、2着に8馬身差の逃げ切り勝利を見せた。続く条件戦も快勝し、関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスに臨む。ここではキタノカチドキに突き放されて3馬身差の2着に終わり、初の敗戦を喫した。しかし当年の年度表彰では、函館3歳ステークスの勝利馬サクライワイを抑え、最優秀3歳牝馬に選出された。
アクシデントの連続
編集翌1974年1月、4歳になったイットーは紅梅賞を6馬身差で勝ち、桜花賞優勝候補の一番手と評された。しかし競走後に左前脚骨瘤(骨膜炎の一種)を発症、さらに左肩も痛め、長期の休養を余儀なくされた。これで桜花賞、オークスともに出走機会を失い、鞍上の高尾もデビュー20年目で訪れたクラシック勝利の機会を逸した。高尾は「条件クラスの桜花賞など、私は絶対に見ません」と悔しさを語った[注 1]。当日はイットーと同父であるタカエノカオリが人気薄での勝利を収めた。
半年の温泉療養を経て、8月に復帰。緒戦のオープン特別(1700メートル)を1分42秒2のレコードタイムで勝利する。続いて秋の目標としたビクトリアカップに向け、その前哨戦となる京都牝馬特別に出走、50パーセント超の単勝支持を集めた。この競走には、一世代上の最優秀3歳牝馬キシュウローレルも出走(2番人気)し、2世代の3歳牝馬チャンピオンの対決となった。ところが、最終コーナーの手前でキシュウローレルが左前脚を骨折・転倒し、直後に位置していたイットーはこのあおりを受け、右後脚を7針縫う裂傷を負った[注 2]。
これでビクトリアカップの出走も断念。年末にはセントウルステークス(当時オープン特別競走)に出走したが、他馬を怖がる素振りを見せ[4]、3着に敗れた。イットーに相次いだ不運に、京都牝馬特別の競走後より田中が体調を崩し、高尾が厩舎管理の一端を担うようになる[4]。負担が増した高尾は、セントウルステークスを最後にイットーの騎乗を簗田善則に譲った。
復活、重賞制覇
編集精神面の立て直しを図るために一時休養し、翌年3月に復帰。緒戦のオープン戦で前年の最優秀5歳以上牡馬タニノチカラと競り合い、半馬身差の2着となった。続くマイラーズカップでは同馬に加え、阪神3歳ステークス以来となるキタノカチドキとの対戦となり、天皇賞への一前哨戦ながら「三強対決」と注目を集めた。当日は雨中の不良馬場を好位から追走したが、先に抜け出したキタノカチドキに再び敗れる。しかしタニノチカラはハナ差競り落とし、2着を確保した。
2戦の好走で復活と目され、次走のスワンステークスでは圧倒的な1番人気に推された。レースでは好位から抜け出すと、最後は簗田が後ろを振り向く余裕を見せながら1着でゴール。10戦目にして初の重賞勝利を果たした。一重賞に過ぎない競走であったが、表彰式ではファンから大きな拍手を贈られた[5]。
次走阪急杯は3着に敗退[注 3]。しかし続いて出走した高松宮杯で新馬戦以来の逃げを見せると、重馬場ながら2分00秒2という好タイムを記録し、重賞2勝目を挙げた。
故障、引退
編集夏の休養を経て出走したサファイヤステークス(当時オープン特別競走)を快勝。秋を迎えての朝日チャレンジカップではロングホークのレコード勝利からハナ差の2着となり、3戦目に前年アクシデントで大敗した京都牝馬特別に出走した。
他馬よりも4キログラム以上重い59キログラムの斤量を背負いながら本命に支持されたが、好位に付けた最後の直線入口地点で故障(左前脚浅屈腱劇伸)を生じ、4着に敗退した。競走中に後脚で左前脚を蹴りつけたことが原因とされ[6]、競走能力を喪失。さらに2週間後の11月12日に田中好雄が死去し、これを最後に競走生活から退いた。この年、重賞2勝の活躍が評価され、翌1月には当年の最優秀5歳以上牝馬に選出された。
全成績
編集年月日 | 開催場 | 競走名 | 頭数 | 人気 | 着順 | 距離(状態) | タイム | 着差 | 騎手 | 斤量 | 勝ち馬/(2着馬) | ||
1973 | 11. | 11 | 京都 | 新馬 | 15 | 3 | 1着 | 芝1200m(稍) | 1:13.6 | 8身 | 高尾武士 | 52 | (ヤマニンチラツ) |
11. | 24 | 京都 | 白菊賞 | 7 | 1 | 1着 | 芝1400m(良) | 1:24.4 | 1 1/2身 | 高尾武士 | 53 | (ホウスウセダン) | |
12. | 9 | 阪神 | 阪神3歳ステークス | 11 | 3 | 2着 | 芝1600m(良) | 1:36.7 | 0.5秒 | 高尾武士 | 53 | キタノカチドキ | |
1974 | 1. | 5 | 京都 | 紅梅賞 | 11 | 1 | 1着 | 芝1600m(良) | 1:36.3 | 6身 | 高尾武士 | 53 | (タイロック) |
8. | 18 | 函館 | オープン | 8 | 2 | 1着 | 芝1700m(良) | R1:42.2 | 2 1/2身 | 高尾武士 | 52 | (ドミナス) | |
10. | 27 | 京都 | 京都牝馬特別 | 17 | 1 | 10着 | 芝1600m(良) | 1:37.8 | 0.4秒 | 高尾武士 | 52 | アイテイシロー | |
12. | 1 | 阪神 | セントウルステークス | 8 | 1 | 3着 | 芝1600m(良) | 1:35.6 | 0.1秒 | 高尾武士 | 52 | ランドグレース | |
1975 | 3. | 15 | 阪神 | オープン | 6 | 2 | 2着 | 芝1600m(良) | 1:35.0 | 0.1秒 | 簗田善則 | 53 | タニノチカラ |
4. | 13 | 阪神 | マイラーズカップ | 9 | 2 | 2着 | 芝1600m(不) | 1:36.3 | 0.1秒 | 簗田善則 | 52 | キタノカチドキ | |
5. | 11 | 京都 | スワンステークス | 11 | 1 | 1着 | 芝1600m(良) | 1:36.5 | 1 1/4身 | 簗田善則 | 53 | (フジノタカワシ) | |
6. | 8 | 阪神 | 阪急杯 | 12 | 1 | 3着 | 芝1600m(良) | 1:35.2 | 0.2秒 | 簗田善則 | 55 | シルバーネロ | |
6. | 22 | 中京 | 高松宮杯 | 7 | 3 | 1着 | 芝2000m(重) | 2:00.2 | 1 1/2身 | 簗田善則 | 53 | (ニホンピロセダン) | |
9. | 7 | 阪神 | サファイヤステークス | 6 | 1 | 1着 | 芝1600m(良) | 1:35.0 | 1 1/4身 | 簗田善則 | 56 | (コウイチタロー) | |
9. | 21 | 阪神 | 朝日チャレンジカップ | 5 | 1 | 2着 | 芝2000m(良) | 2:00.3 | 0.0秒 | 簗田善則 | 58 | ロングホーク | |
10. | 26 | 京都 | 京都牝馬特別 | 9 | 1 | 4着 | 芝1600m(良) | 1:36.8 | 0.8秒 | 簗田善則 | 59 | カバリダナー |
繁殖牝馬として
編集引退後は故郷・荻伏牧場で繁殖牝馬となる。初年度には荻伏が導入した種牡馬サンシーと交配され、初仔ハギノトップレディを出産。同馬は新馬戦で日本レコードタイムを出すなど快速馬として鳴らし、イットーが出走できなかった桜花賞、エリザベス女王杯(ビクトリアカップの後継競走)を制し、二冠牝馬となった。さらに、当時不動のリーディングサイアーであったテスコボーイとの産駒ハギノカムイオーは、トップレディのデビューから2週間後に開催された セリ市に上場され、当時の史上最高価格となる1億8500万円[注 4]で売却された。同馬が競走馬としても成功を収めると、以後トップレディ、カムイオーには大きく劣る競走成績であったニッポーハヤテ、ワッカオー[注 5]、サクライットー、チュニカオーといった牡駒も、相次いで種牡馬となった。カムイオーも含め、これらは種牡馬としては失敗に終わったが、ハギノトップレディは繁殖牝馬となってGI競走2勝のダイイチルビーを産み、自身とイットーの名声をさらに高めた。
イットー自身は1996年の種付け(不受胎)を以て繁殖を引退し、以後は功労馬として余生を過ごした。早世するものも多かった一族にあって長命を保ったが、1997年5月21日、発症していた蹄葉炎の悪化により安楽死の措置が執られた。27歳。
産駒一覧
編集生年 | 馬名 | 性 | 毛色 | 父 | 厩舎 | 馬主 | 戦績 | 繁殖 | |
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初仔 | 1977年 | ハギノトップレディ | 牝 | 黒鹿毛 | サンシー | 栗東・伊藤修司 | 日隈広吉 | 11戦7勝 桜花賞、エリザベス女王杯など重賞5勝 |
繁殖牝馬 (2003年死亡) |
2番仔 | 1978年 | ニッポーハヤテ | 牡 | 黒鹿毛 | 美浦・久保田金造 | 山石祐一 | 33戦7勝 安田記念3着 |
種牡馬 (1994年用途変更) | |
3番仔 | 1979年 | ハギノカムイオー | 牡 | 黒鹿毛 | テスコボーイ | 栗東・伊藤修司 | 日隈広吉 中村和夫 |
14戦8勝 宝塚記念など重賞6勝 |
種牡馬 (2002年用途変更) |
4番仔 | 1980年 | トップカムイ | 牝 | 黒鹿毛 | サンシー | 栗東・田中良平 | (有)荻伏牧場 | 不出走 | (死亡) |
5番仔 | 1981年 | ワッカオー | 牡 | 鹿毛 | サンプリンス | 栗東・伊藤修司 | 9戦1勝 | 種牡馬 (1993年用途変更) | |
6番仔 | 1982年 | サクライットー | 牡 | 黒鹿毛 | サンシー | 美浦・久保田彦之 | (株)さくらコマース | 不出走 | 種牡馬 (2002年死亡) |
7番仔 | 1984年 | アイランドオリーブ | 牝 | 鹿毛 | サンプリンス | 船橋・安藤榮作 | 嶋村二三男 | 地方5戦1勝 | 繁殖牝馬 (2005年死亡) |
8番仔 | 1985年 | チュニカオー | 牡 | 鹿毛 | ヴァリィフォージュ | 栗東・谷八郎 | 北條三郎 →北條傳三 |
13戦4勝 阪神大賞典3着 |
種牡馬 (1997年用途変更) |
9番仔 | 1986年 | カムイイットー | 牝 | 黒鹿毛 | ラッキーソブリン | 栗東・伊藤修司 | (株)荻伏レーシング・クラブ | 6戦2勝 シンザン記念3着 |
繁殖牝馬 (2009年用途変更) |
10番仔 | 1987年 | グロウペガサス | 牝 | 鹿毛 | ブレイヴェストローマン | 美浦・畠山重則 | 赤松繁行 | 不出走 | 繁殖牝馬 (2007年死亡) |
11番仔 | 1988年 | ダイイチクルス | 牡→騸 | 鹿毛 | ラッキーソブリン | 栗東・伊藤雄二 | 辻本春雄 | 24戦5勝 (うち障害3戦1勝) |
(予後不良) |
12番仔 | 1990年 | ニッポーグランプリ | 牡 | 鹿毛 | ニッポーテイオー | 栗東・伊藤修司 | 山石祐一 | 36戦3勝 | - |
13番仔 | 1991年 | フジノカズサオー | 牡 | 鹿毛 | ヤマニンスキー | 栗東・中村好夫 →盛岡・平澤芳三 →高崎・水野清貴 |
中村寛俊 →高橋文枝 |
71戦14勝 (うち地方50戦9勝) |
- |
14番仔 | 1994年 | キープイットアップ | 牝 | 鹿毛 | モガミチャンピオン | 栗東・荻野光男 | (株)ロードホースクラブ | 2戦0勝 | 繁殖牝馬 |
その他の子孫については華麗なる一族を参照のこと。
血統表
編集イットーの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | レリック系 |
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父 *ヴェンチア Venture 1957 黒鹿毛 イギリス |
父の父 Relic 1945青毛 アメリカ |
War Relic | Man o'War | |
Friar's Carse | ||||
Bridal Colors | Black Toney | |||
Vaila | ||||
父の母 Rose O'Lynn 1944鹿毛 アイルランド |
Pherozshah | Pharos | ||
Mah Mahal | ||||
Rocklyn | Easton | |||
Rock Forrard | ||||
母 ミスマルミチ 1965 鹿毛 日本 |
*ネヴァービート Never Beat 1960 栃栗毛 イギリス |
Never Say Die | Nasrullah | |
Singing Grass | ||||
Bride Elect | Big Game | |||
Netherton Maid | ||||
母の母 キユーピツト 1957鹿毛 日本 |
Nearula | Nasrullah | ||
Respite | ||||
*マイリー Mairie |
Supreme Court | |||
Lusignan | ||||
母系(F-No.) | マイリー系(FN:7-e) | [§ 2] | ||
5代内の近親交配 | Nasrullah 4・4(母内)、Nearco 5・5・5(母内) | [§ 3] | ||
出典 |
脚注
編集- ^ この桜花賞では、イットーのほかに関東勢の有力馬であったレスターホースも故障で戦線離脱していた。高尾は「競馬場にも行きたくない」と語っていたが、新聞社より観戦記の執筆を依頼されてやむなく観戦、「ゴール前は泣きたい心境だったと」回想している。(『日本の名馬・名勝負物語』406頁)
- ^ キシュウローレルはこの怪我で予後不良と診断され、安楽死の措置が執られた。
- ^ 競走2日前の調教で放馬しており、この影響が指摘されている。(『日本の名馬・名勝負物語』)
- ^ 開始価格は8000万円の時点で、すでに従来の最高売却額5000万円を大きく上回っていた。種牡馬としての価値も見越した価格とされている。(『日本名馬物語』)
- ^ 本馬はハギノカムイオーを上回る2億4000万円で取引された。
参考文献
編集- 中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)ISBN 4924426024
- 大川慶次郎ほか『サラブレッド101頭の死に方2』(アスペクト、1997年)ISBN 4893668757
- サラブレ編集部編『日本名馬物語 - 蘇る80年代の熱き伝説』(講談社、2008年)ISBN 4062810964
- 『優駿』1993年1月号(日本中央競馬会、1992年)