イダ・ルビンシュタイン
イダ・リヴォヴナ・ルビンシュタイン(ルビンシュテイン、またはルビンシテイン。露: И́да Льво́вна Рубинште́йн, 仏: Ida Lvovna Rubinstein 、1885年10月5日-1960年9月20日)はロシア出身のフランスのバレリーナ、役者。あまりに晩学だったためバレリーナとしては一流と見なされておらず[1]、強いロシア語なまりのために役者としても中途半端であったが、舞台上での存在感や演技力は際立っており、エキゾチックで両性具有的な容姿に多くの人々が魅了された。ベルエポックの美意識を象徴する美女として、また、当時の芸術家たちのパトロンとして知られており、ラヴェル作曲の『ボレロ』など、いくつかの作品が彼女の委嘱によって生み出された。
経歴
編集裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、早い時期に孤児となる。20歳を過ぎてからミハイル・フォーキンに師事するまで、ロシアバレエの伝統から言えばイダは正式な訓練をほとんど受けなかった。
1908年、ペテルブルクにおいてオスカー・ワイルドの『サロメ』をパントマイム形式で独演してデビュー[2]。「7つのヴェールの踊り」では一糸まとわぬ姿となり物議を醸した[3]。 『サロメ』において振付を担当したフォーキンおよび美術を担当したレオン・バクストの推薦により、パリにおけるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の公演に参加[4]。同団の旗揚げと見なされる1909年のシャトレ座公演でのバレエ『クレオパトラ』[5]にて主役クレオパトラ[6]、翌1910年、パリ・オペラ座公演でのバレエ『シェヘラザード』[7]にてスルタンの寵妃ゾベイダ[8]を演じた。いずれも振付はフォーキン、美術と衣裳はバクストが担当した。 これら2作品におけるイダの役どころは踊りがほとんどないパントマイムに近いものであったが、観客に強烈な印象を与え[9]、ジャン・コクトーやマルセル・プルーストを始め、多くの人々が彼女の美を讃えた[10]。
1911年にバレエ・リュスを離れ[11][12]、自主公演を行うようになった。同年、シャトレ座において上演した『聖セバスティアンの殉教』は、イタリアの詩人ダンヌンツィオが彼女のために書き下ろした作品であり、音楽はクロード・ドビュッシー、美術はバクストが担当した。この作品は、洗練されたモダニズムによって称賛されると同時にスキャンダルともなった。ユダヤ人女性が聖セバスチャン(セバスティアヌス)を演じたことがパリの大司教の逆鱗に触れたからである。大司教は全てのカトリック信徒に向けて、この作品を観に行ってはならないとお触れを出した。
その後、振付のブロニスラヴァ・ニジンスカ、舞台美術のアレクサンドル・ブノワら、多くのバレエ・リュスの関係者を引き抜いて[13]独自のバレエ・カンパニーを結成し、1928年11月にパリ・オペラ座で旗揚げ公演を行った。この公演では彼女の依頼によって生まれたイーゴリ・ストラヴィンスキーの『妖精の接吻』、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』[14]などが初演された[15]。イダは豊富な資金力にものを言わせてオペラ座を満席にしてバレエ・リュスに脅威を与えた。
彼女のカンパニーはしばしば無料のバレエ上演会を開催し、第二次世界大戦が勃発する1939年まで断続的に活動を続けたが、その後彼女は舞台から遠ざかり、1960年にヴァンスにおいてひっそりと亡くなった[16]。
イダは芸術家のパトロンとしても重きを成し、彼女のダンサーとしての技術的弱さに応じた[17]、踊りと演劇と劇作法が綯い交ぜになった作品を芸術家たちに発注した。こうして生まれた舞台作品には、ジャック・イベール作曲によるバレエ『ポワチエのディアナ』、アルテュール・オネゲル作曲によるバレエ『アンフィオン』、ポール・クローデルの台本とオネゲルの音楽による劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』などがある[18][19]。
美術における描写
編集イダは美術の世界でも称賛された。バレエ・リュスでの『クレオパトラ』のフィナーレに霊感を得たキース・ヴァン・ドンゲンは、『1909年シーズンのロシア・オペラの思い出』を描いた。 ヴァレンティン・セローフ描くところのイダの肖像(1910年作)は、円熟の境地を存分に示している。彼女はアールデコの彫刻家のデメートル・シパリュスによる小立像やアントニオ・デ・ラ・ガンダラによる肖像画のモデルとなった。
両性愛者だったイダは、1911年から3年間にわたって画家ロメイン・ブルックスと恋愛関係を持った。ブルックスもまた、イダをモデルにして印象的な肖像画を描いた。ヴィーナス(『悲しめるウェヌス/La Venus triste』)他、イダをモデルに数点の絵画を残している。
脚注
編集- ^ マリ=フランソワーズ・クリストゥ、佐藤俊子訳『バレエの歴史』白水社、1970年、109頁
- ^ 聖職者の首を切るという内容であったことからロシア正教会が上演に反対したが、結果的には台詞なしという条件で上演が許可された(鈴木晶『踊る世紀』新書館、1994年、273頁)。
- ^ 一枚ずつ衣裳を脱いだのは事実であるが、全裸になったというのは誤りという説もある(鈴木晶、前掲書、273頁)。
- ^ バレエ・リュスの首脳陣の中にはバレエに関して素人同前のイダを舞台にあげることに対する反対意見もあったが、主宰者セルゲイ・ディアギレフは参加を決断した(藤野幸雄『春の祭典 ロシア・バレー団の人々』晶文社、1982年、230頁)。
- ^ マリインスキー劇場の演目『エジプトの夜』を改題したもの。
- ^ クレオパトラの登場シーンは、石棺の中から12枚の布に巻かれて運び出され、1枚ずつ布がはぎとられるという、「7つのヴェールの踊り」を思わせる演出がなされた(鈴木晶、前掲書、275頁)。
- ^ ニコライ・リムスキー=コルサコフの音楽と『千夜一夜物語』の最初の話に基づくバレエであり、華麗かつ官能的な舞台で当時称賛の的となったものの、この作品は近年ほとんど演じられない。その理由はパントマイムが多すぎることと、当時の時代感覚に密着した東洋趣味が今日では古めかしくなってしまったことであると考えられている。
- ^ ゾベイダは、スルタンの目を盗んで「金の奴隷」(ヴァーツラフ・ニジンスキーが演じた)と愛し合い、最後は自殺するという役回りであった。
- ^ 芳賀直子『バレエ・リュス その魅力のすべて』国書刊行会、2000年、213頁
- ^ 藤野幸雄、前掲書、230-231頁
- ^ 1911年の『シェヘラザード』の再演ではタマーラ・カルサヴィナがゾベイダを演じたが、イダの演技にはかなわなかった(藤野幸雄、前掲書、232頁)。また、『クレオパトラ』におけるイダの代役として、マタ・ハリが候補にあがったが実現しなかった(芳賀、前掲書、213頁)。
- ^ その後、ディアギレフは1914年の『ヨセフ伝説』(リヒャルト・シュトラウス作曲)に彼女を起用しようとしたが、イダは応じなかった。
- ^ 芳賀直子、前掲書、41頁
- ^ イダは当初、ラヴェルにアルベニスの『イベリア』の編曲を委嘱していたが、他人が同作品の編曲に着手していることを知ったラヴェルは『ボレロ』を書き下ろした(アービー・オレンシュタイン、井上さつき訳『ラヴェル 生涯と作品』2006年、129頁)。
- ^ この時バレエ・リュスはグラスゴーでの公演中であったが、ディギレフは単身パリに戻ってイダの旗揚げ公演を偵察し、踊り、振付、美術の全てに酷評を与えた(藤野幸雄、前掲書、237-238頁)。
- ^ 藤野幸雄、前掲書、238頁
- ^ マリ=フランソワーズ・クリストゥ、前掲書、109頁
- ^ マリ=フランソワーズ・クリストゥ、前掲書、110頁
- ^ この他に音楽家ではアンリ・ソーゲやジョルジュ・オーリック、振付家ではレオニード・マシーンやセルジュ・リファールらが協力した。
参考文献
編集- Toni Bentley (2005) Sisters of Salome, Bison Books, ISBN 0-8032-6241-8
- Michael de Cossart, Ida Rubinstein (1885-1960): A Theatrical Life, Liverpool University Press, ISBN 0-85323-146-X
外部リンク
編集- キース・ヴァン・ドンゲン画『1909年シーズンのロシアオペラの思い出』に関するエッセイ
- NPRより『ボレロ』に関する記事
- 『聖セバスチァンの殉教』に関するエッセイ
- ローラ・ヴィクトリア・グレイ『ロシアにおける東洋趣味とバレエ・リュス』
- ガブリエッリーノ・ダンヌンツィオ監督作品"La Nave" (Internet Movie Databaseより)