アン・パットナム
アン・パットナム(英語: Ann Putnam, アン・パットナム・ジュニアとも呼ばれる、1679年10月18日 - 1716年)は、17世紀末の植民地時代アメリカの女性。ベティ・パリス、メアリー・ウォルコット、マーシー・ルイス、アビゲイル・ウィリアムズと共に、マサチューセッツ湾植民地のセイラム魔女裁判で重要な告発者となった。
アン・パットナム | |
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アン・パットナムの家(現在のマサチューセッツ州ダンバース)。1891年頃。 | |
生誕 |
1679年10月18日 マサチューセッツ湾植民地ダンバース |
死没 | 1716年(36 - 37歳没) |
著名な実績 | セイラム魔女裁判の告発者 |
親 |
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生い立ち
編集エセックス郡ダンバースで1679年に、地域の有力者であるトマス・パットナム(1652年 - 1699年)とアン・パットナム・シニア(1661年 - 1699年)の長女として生まれた。将軍イズラエル・パットナムとルーファス・パットナムのいとこ違いにあたる。
セイラム魔女裁判
編集アン・パットナムは魔術に苦しんでいると宣言した少女たちと友人で、1692年3月に自分自身も苦しんでいると主張した。彼女は62人の告発を担当し[1]、それは他の少女の告発と合わせて、20人の死刑と数人の獄中死をもたらした。
アン・パットナムは平凡なアビゲイルやベティと違い、当時12歳という年齢としては天才的な学習能力を持っていたとされる[2]。彼女は一つを除く全ての裁判で証言台に立ち、驚くほど真に迫った文学的な状況描写を述べた[3]。
終結後
編集チャールズ・ウェントワース・アパムによると、魔女裁判が終結した後、アンは病床に伏せるようになり、そのことが若くしての彼女の死に繋がった[4]。彼女は1699年に両親を亡くし、9人の兄弟姉妹を育てなくてはならなくなった。
1706年に、彼女は自身がセイラム魔女裁判で行った行動について謝罪した[5]。魔女裁判の生存者や遺族は、アン・パットナムの謝罪を聞き入れ、許したという。
1716年に死去し、ダンバースにて両親と共に不名誉の象徴とされる「墓標なし」で埋葬された[6]。アン・パットナムは生涯独身だった[7]。
参考文献
編集- ^ “Thomas Putnam: Ringleader of the Salem Witch Hunt?”. History of Massachusetts. (2013年11月19日) 2017年12月3日閲覧。
- ^ マリオン・L・スターキー『少女たちの魔女狩り The Devil in Massachusetts』平凡社、p.33。
- ^ ロッセル・ホープ・ロビンズ『悪魔学大全』1997年、p.454。
- ^ Upham 2000, p. 611-612.
- ^ Upham 2000, p. 510.
- ^ “Ann Putnam”. Find a Grave (2002年). 2019年10月6日閲覧。
- ^ Alvarez, Kate (2002年). “Ann Putnam”. Salem Witch Trials Documentary Archive and Transcription Project. Charlottesville, Virginia: University of Virginia. 2019年10月6日閲覧。
出典
編集- Upham, Charles W. (2000) [1867], Salem Witchcraft, 2, Dover Publications, ISBN 0-486-40899-X