アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)
アンナ・フォン・エスターライヒ(Anna von Österreich, 1432年4月12日 - 1462年11月13日)は、ローマ王アルブレヒト2世の娘で、テューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世の最初の妻。ボヘミア王・ハンガリー王ラディスラウス・ポストゥムス、ポーランド王妃エリーザベトの姉である。
アンナ・フォン・エスターライヒ Anna von Österreich | |
---|---|
出生 |
1432年4月12日 神聖ローマ帝国 オーストリア公国、ウィーン |
死去 |
1462年11月13日(30歳没) 神聖ローマ帝国 ザクセン公領、エッカルツベルガ |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ザクセン公領、フリードリヒローダ、ラインハルツブルン修道院 |
配偶者 | テューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世 |
子女 |
マルガレーテ カタリーナ |
家名 | ハプスブルク家 |
父親 | ローマ王アルブレヒト2世 |
母親 | エリーザベト・フォン・ルクセンブルク |
生涯
編集オーストリア公アルブレヒト5世(のちのローマ王アルブレヒト2世)とその妃で神聖ローマ皇帝(当時はローマ王)ジギスムントの娘であるエリーザベトとの間の第1子、長女として生まれた。1439年に父を、1442年に母を幼くして亡くす。1446年6月20日にイェーナにおいて、14歳でザクセン選帝侯フリードリヒ1世の末息子ヴィルヘルムと結婚した。アンナは結婚に際してオーストリア家領の相続権は放棄したが、父アルブレヒトが主権を有したボヘミア、ハンガリーその他の領土については継承権を放棄したわけではなかった。アンナの母エリーザベトは、同族の従姉エリーザベト・フォン・ゲルリッツが1441年にブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)にルクセンブルク公領を売却したことを認めていなかった。ヴィルヘルムは妻方の権利を盾に公領を占領したが、すぐにブルゴーニュ軍によって領外へ追い出された。1457年にアンナの弟ラディスラウスが死去すると、ヴィルヘルムはルクセンブルク公を自称した。
その後、ヴィルヘルムは妻を捨てて愛妾のカタリーナ・フォン・ブランデンシュタイン(Katharina von Brandenstein)と同棲し、アンナはエッカルツベルク城(Eckartsburg)に幽閉されて死ぬまでこの城で過ごした。アンナは一度だけ夫に復縁を願いに行ったが、夫から顔に木靴を投げつけられる侮辱的な扱いをされ、即座に城に逃げ帰ったという[1]。アンナが1463年に死ぬと、ヴィルヘルムはすぐに愛妾カタリーナと再婚した。アンナの遺骸はフリードリヒローダのラインハルツブルン修道院(Kloster Reinhardsbrunn)に葬られた。
子女
編集夫との間に2人の娘をもうけた。
- マルガレーテ(1449年 - 1501年) - 1476年、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロと結婚
- カタリーナ(1453年 - 1534年) - 1471年、ミュンスターベルク公ヒネクと結婚
参考文献
編集- Constantin von Wurzbach: Habsburg, Anna von Oesterreich (1432–1462). Nr. 22. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. Band 6. Verlag L. C. Zamarski, Wien 1860, S. 150.
- Eberhard Holtz, Michael Lindner, Peter Moraw: Akkulturation und Selbstbehauptung S. 336 (Digitalisat)
- Hermann Meynert: Geschichte Oesterreich's, seiner Völker und Länder, Volumes 1-2, S. 329 (Digitalisat)
- Eduard Maria von Lichnowsky: Geschichte des Hauses Habsburg, S. 3 f. (Digitalisat)
脚注
編集- ^ Joseph Chmel, Karl Friedrich Wilhelm Lanz: Monumenta habsburgica: Sammlung von actenstücken und briefen zur ..., Volume 1, S. 80