アンドリュー・ラッセル・フォーサイス

アンドリュー・ラッセル・フォーサイスAndrew Russell Forsyth, 1858年6月18日グラスゴー生 – 1942年6月2日サウス・ケンジントン没)は、英国の数学者[1][2]ロンドン王立協会フェロー(FRS,FRSE)[3]

Andrew Russell Forsyth
1932年国際数学者会議にて。右がフォーサイス、左隣はエリー・カルタン
生誕 1858年6月18日
グラスゴー
死没 1942年6月2日
サウス・ケンジントン
研究分野 数学
研究機関 リバプール大学
トリニティ・カレッジ
出身校 トリニティ・カレッジ
指導教員 アーサー・ケイリー
主な指導学生 エドマンド・テイラー・ホイッテーカー
主な受賞歴 ロイヤル・メダル (1897)
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生涯

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アンドリュー・ラッセル・フォーサイスは1858年6月18日グラスゴーで、海洋技術者のジョン・フォーサイス(John Forsyth)と彼の妻クリスティーナ・グレン(Christina Glen)の間の子として、生まれた[4]

リパブール単科大学で学び、ケンブリッジ大学トリニティ校に入るまでリチャード・ペンドルバリー(Richard Pendlebury)の個人指導を受けたのち、1881年に首席卒業(Senior wrangler)した[5]。トリニティのフェローに選出されると、24歳でリバプール大学に数学で職を得た。

1884年には講師としてケンブリッジ大学に戻り、1895年にサドレリアの純粋数学教授(Sadleirian Professor of Pure Mathematics)となった。

1886年にはロンドン王立協会フェローに選出され[3]、1897年にはロイヤル・メダルを授与された。1902年9月6日には、数学者のニールス・アーベル生誕百周年記念祭のお祝いとして、フレデリク王立大学から数学博士(Doctor mathematicae (honoris causa))の学位を受けた[6][7]。 1908年のローマで開催された国際数学者会議(ICM)においては全体講演を行った[8]

上記のとおり順風満帆なケンブリッジ大学時代であったが、1910年、物理学者のC.V.ボーイズ(C.V.Boys)の妻のマリオン・アメリア・ボーイズ(Marion Amelia Boys、旧姓"ポロック(Pollock))との不倫スキャンダルが原因で、彼は数学教授の職を強制的に辞めさせられた[9]。ボーイズは、ラッセル・フォーサイスとマリオンの不倫を原因とする離婚が認められ、その後、マリオンとラッセル・フォーサイスは結婚することとなった。

ラッセル・フォーサイスは1913年にインペリアル・カレッジ・サイエンス(Imperial College of Science)に教授職を得て、70歳に差し掛かるまで数学的な活動を継続し、1923年に退職した。

1942年6月2日にロンドンで没し、ゴルダーズ・グリーン火葬場(Golders Green Crematorium)で火葬された[4]

現代において、彼はオリジナルの業績を持つ研究者というよりも多くの学術論文の著者として知られている。しかしながら、彼の本はしばしば批判の憂き目に遭遇している(例えば、ジョン・エデンサー・リトルウッド著"A Mathematician's Miscellany"における批判がある)[10]。なお、彼の学生は公式にはエドマンド・テイラー・ホイッテーカーだけである[2]

家族

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1910年にラッセル・フォーサイスはマリオン・アメリア・ポロック(Marion Amelia Pollock)と結婚した。

業績

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脚注

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  1. ^ O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “アンドリュー・ラッセル・フォーサイス”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews, https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Forsyth/ .
  2. ^ a b アンドリュー・ラッセル・フォーサイス - Mathematics Genealogy Project
  3. ^ a b Whittaker, E. T. (1942). “Andrew Russell Forsyth. 1858-1942”. Obituary Notices of Fellows of the Royal Society 4 (11): 208–226. doi:10.1098/rsbm.1942.0017. https://royalsocietypublishing.org/doi/pdf/10.1098/rsbm.1942.0017. 
  4. ^ a b Biographical Index of Former Fellows of the Royal Society of Edinburgh 1783–2002. The Royal Society of Edinburgh. (July 2006). ISBN 0 902 198 84 X. https://www.royalsoced.org.uk/cms/files/fellows/biographical_index/fells_indexp1.pdf 
  5. ^ "Forsyth, Andrew Russell (FRST877AR)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  6. ^ "Foreign degrees for British men of Science". The Times (英語). No. 36867. London. 8 September 1902. p. 4.
  7. ^ Honorary doctorates from the University of Oslo 1902-1910, http://www.uio.no/om/tall-og-fakta/aresdoktorer/tidligere-aresdoktorer/1902-1910/  (in Norwegian)
  8. ^ Forsyth, A. R. (1909). “On the present condition of partial differential equations of the second order as regards formal integration”. In G. Castelnuovo. Atti del IV Congresso Internazionale dei Matematici (Roma, 6–11 Aprile 1908). vol. 1. pp. 87–103. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=miun.aag4063.0081.001;view=1up;seq=93 
  9. ^ ケンブリッジ大学においては、この1910年に多くの事柄が発生した。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドはケンブリッジ大学の非科学的封建制に愛想を尽かしロンドン大学へ移り、その代わりのように、共同研究者であったバートランド・ラッセルが、ケンブリッジ大学トリニティ校に論理学・数学原理の講師として5年の任期付で採用された。
    さらに、ジョン・エデンサー・リトルウッドが教官として在籍していたマンチェスター大学工学部で特別研究生であり、航空工学から数学の基礎に関心を移したといわれるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがこのラッセルがいるケンブリッジ大学を訪ねたのもこの1910年である。
    山元一郎 編『世界の名著 ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド』 58巻、中央公論社、1971年。  p.541
  10. ^ Littlewood, John Edensor (1986). A Mathematician's Miscellany. Cambridge University Press. p. 135. "A. R. Forsyth wrote a C.U.P. book on functions of two complex variables. It is a thoroughly bad book." 

関連項目

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