アントワーヌ・トゥルイユ・ド・ボーリュー

アントワーヌ・エクトール・テゼ・トゥルイユ・ド・ボーリュー(Antoine Hector Thésée Treuille de Beaulieu)1809年–1885年)は19世紀フランスの将軍で、フランスにおける施条砲のコンセプトを開発した[1]

1859年型4kg山砲(四斤山砲)。口径:86 mm、長さ:0.82 m、砲身重量:101 kg、総重量:208 kg、砲弾重量:4 kg(榴弾)

経歴

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1809年5月7日、リュネヴィル生まれ。エコール・ポリテクニークに学んだ後、砲兵部隊での経歴を積み、1833年に中尉、1840年に大尉、1857年に中佐、1859年に大佐、1867年には准将と昇進した。武器の開発が主任務で、1840年にはシャテルロー造兵廠に勤務し、軍に戻ってからは射撃精度委員会の委員となった(1851年)。

施条砲の開発の他、シャスポー銃の開発にも関与した。

1866年7月24日、パリにて没。

施条砲の開発

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ボーリューは1840年から1852年にかけてライフリングの研究を行っていたが[2]、1854年にナポレオン3世の命により実戦兵器としての開発が開始され、ド・ボーリュー・システムとしてフランス陸軍に採用された。前装砲の内腔には6条の溝が彫られ、砲弾にこの溝に合うように6箇所の突起が作られた[3]。このフランスの施条砲開発は、イギリス陸軍アームストロング砲(1858年制式採用)とほぼ同時期に行われていた[3]

この開発は、1858年の前装式施条砲で構成されるライット・システムの導入に繋がった。ボーリュー4ポンド砲(実際には砲弾重量は4kg)は1858年にフランス陸軍に採用され、12ポンドナポレオン砲(実際には12cm砲で、砲弾重量は4.1kg)を置き換えた。12ポンドナポレオン砲は榴弾が使用出来る前装式滑腔砲であったが、射撃精度が十分でなくまた射程も短かった[4]

ボーリュー施条砲は、まずアルジェリアで使用され、続いて1859年のイタリアにおける仏墺戦争で使用された[5]

脚注

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  1. ^ André Corvisier, p.44 [1]
  2. ^ Journal By Royal Society of Arts, p.617
  3. ^ a b André Corvisier, p.45 [2]
  4. ^ 「...1858年のフランス陸軍のボーリュー4ポンド砲の導入は、以前の12ポンドナポレオン砲南北戦争の主力野砲であった)より射程および射撃精度において勝ったが、対人用の散弾(ケース・ショット、フランス語でmitraille))には向いていなかった」Patrick Marder
  5. ^ 「ボーリュー施条砲はまず一時的にアルジェリアで使用されたが、高い評価を得たのは1859年のイタリアでの戦争においてであった」Brent Nosworthy, p.644

参考資料

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  • André Corvisier: A Dictionary of Military History and the Art of War, Wiley-Blackwell; Revised & Enlarged edition (September 28, 1994). ISBN 978-0631168485
  • Journal By Royal Society of Arts (Great Britain), No. 611, Volume 12, August 5, 1864
  • Patrick Marder: The Mitrailleuse, Military History Online
  • Brent Nosworthy: The Bloody Crucible of Courage: Fighting Methods and Combat Experience of the Civil War , Constable (July 28, 2005). ISBN 978-1845292201