アレクシス・バルタザール・アンリ・シャウエンブルク
アレクシス・バルタザール・アンリ・シャウエンブルク(Alexis Balthazar Henri Schauenburg, 1748年7月31日 - 1831年9月1日)は、フランス革命戦争・ナポレオン戦争期に活躍したフランス軍人である。最終階級は少将(Général de division)で、シャウエンブルク家(von Schauenburg)出身。
アレクシス・バルタザール・アンリ・シャウエンブルク Balthazar Alexis Henri Schauenburg | |
---|---|
生誕 | 1748年7月31日 ロレーヌ公国 エリメール |
死没 | 1831年9月1日 フランス王国 バ=ラン県ギューデルタイム |
所属組織 | フランス |
部門 | フランス陸軍 |
軍歴 | 1764年–1814年 |
最終階級 | 少将(Général de division) |
戦闘 | |
受賞 | 帝国男爵(Baron de l'Empire) レジオンドヌール勲章(大将校) サン・ルイ勲章(司令官) エトワール凱旋門に記名(南柱23列) |
生涯
編集フランス革命が勃発する以前は、フランス国王軍に奉職し、1791年には上級准将(Maréchal de camp)まで昇進した。その後ライン軍(Armée du Rhin)で戦い、1793年には少将(Général de division)に昇進した。そしてモゼル軍(Armée de la Moselle)の司令官となったが苦戦し、同年9月14日のピルマゼンスの戦いでプロイセン王国軍に敗退した。
この頃フランスは恐怖政治に突入し、その間シャウエンブルクは投獄された。
しかし1795年には再び歩兵監察官となり、1798年1月にはナポレオン・ボナパルトのもとでスイス侵攻を指揮した。3月1日にはゾロトゥルン市を占領し、3月5日にはカール・ルートヴィク・フォン・エアラッハ率いるスイス軍に対しグラウホルツの戦いで勝利した。シャウエンブルクは3月8日にヘルヴェティア共和国軍最高司令官となり、5月にはヴィンケルリート礼拝堂を破壊しながら中央スイスの抵抗を撃破した。この進撃は、ニートヴァルデンの恐怖の日々(Schreckenstage von Nidwalden)として知られる。12月10日にアンドレ・マッセナが最高司令官となり、シャウエンブルクは1813年までストラスブルクで陸軍監察官として勤めることとなる。
1814年にフランス復古王政によってルイ18世が即位するとこれに従い、同年12月24日に辞職するまでかつての軍内での権威を取り戻した。シャウエンブルクの名はエトワール凱旋門の南柱に記名(第23列、"SCHAWEMBOURG")され、後世に名を残すこととなった。
シャウエンブルク・コレクション
編集シャウエンブルク・コレクション(Schauenburg-Sammlung)は、シャウエンブルク将軍の名にちなんで命名された。軍事的に重要なベルン州の古地図のコレクションで、1798年にシャウエンブルクによって没収されていたものを、その没後に相続人から返還されたものである。現在保存されている62枚の地図は、1989年に作成された複写である[1]。
脚注
編集出典
編集- Engelberts, Derck C.E.: Die Geschichte der Schauenburg-Sammlung. In: Cartographica Helvetica Heft 1 (1990) S. 18–20 全文
- Schauenburg, Alexis Balthasar Henri Antoine von in German, French and Italian in the online Historical Dictionary of Switzerland.