アレクサンダー・カール (アンハルト=ベルンブルク公)
アレクサンダー・カール(Alexander Carl, Herzog von Anhalt-Bernburg, 1805年3月2日 - 1863年8月19日)は、ドイツのアンハルト=ベルンブルク公(在位:1834年 - 1863年)。
アレクサンダー・カール Alexander Carl | |
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アンハルト=ベルンブルク公 | |
在位 | 1834年 - 1863年 |
出生 |
1805年3月2日 アンハルト=ベルンブルク公領、バレンシュテット |
死去 |
1863年8月19日(58歳没) アンハルト=ベルンブルク公領、ホイム |
配偶者 | フリーデリケ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク |
家名 | アスカーニエン家 |
父親 | アンハルト=ベルンブルク公アレクシウス・フリードリヒ・クリスティアン |
母親 | マリー・フリーデリケ・フォン・ヘッセン |
生涯
編集アンハルト=ベルンブルク公アレクシウス・フリードリヒ・クリスティアンとその妻でヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世の娘であるマリー・フリーデリケの間の次男として生まれ、1834年に父より公爵位を継承した。
同年10月30日に、ゴットープにおいてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘フリーデリケと結婚したが、間に子供は生まれなかった。フリーデリケはデンマーク王クリスチャン9世の姉である。
1847年に同族のアンハルト=ケーテン公ハインリヒが亡くなり、その後継者になることが決まっていたが、継承権を放棄した。1855年までにアレクサンダー・カールは精神疾患が悪化したためにホイムの城館に監禁された。一部の史料では、公爵は統合失調症を患っていたとする。アレクサンダー・カールは侍従で画家のヴィルヘルム・フォン・キューゲルゲンに手厚い看護を受けつつ、ホイムで余生を送った。公爵が統治不能となって以後は、公爵夫人フリーデリケが摂政として国務を代行した。
アレクサンダー・カールの死とともにアンハルト=ベルンブルク公爵家は断絶し、その遺領を継承したアンハルト=デッサウ公レオポルト4世(ケーテン公国も継承していた)が統一アンハルト公国を創設した。
先代 アレクシウス・フリードリヒ・クリスティアン |
アンハルト=ベルンブルク公 1834年 - 1863年 |
次代 レオポルト4世 |