アルベール・ド・バッソンピエール
アルベール・ド・バッソンピエール(Albert de Bassompierre, 1873年8月3日 - 1956年4月2日[1])は、ベルギーの外交官。初代駐日ベルギー大使。男爵。ブリュッセル生まれ。駐日ベルギー大使館の公使参事官を務めたクリストフ・ド・バッソンピエールは曾孫[2]。
アルベール・ド・バッソンピエール Albert de Bassompierre | |
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生誕 |
1873年8月3日 ベルギー、ブリュッセル |
死没 |
1956年4月2日(82歳没) ベルギー、イクル |
国籍 | ベルギー |
職業 | 外交官 |
活動期間 | 1920年 - 1939年 |
子供 | フランソワ・ド・バッソンピエール (François de Bassompierre) |
親戚 | クリストフ・ド・バッソンピエール(曾孫、前在日ベルギー公使) |
駐日ベルギー大使
編集1920年、ベルギー王国の日本における臨時および特命全権大使に任じられ、1939年2月まで日本に滞在した。ベルギーと日本の外交における友好関係を向上させたため、日本で最初のベルギー大使となり、1922年6月には特命全権大使の地位を得た。1923年9月1日に関東大震災を経験し、ベルギーによる救援活動に寄与した。また在任中に日本の軍国主義の台頭を目撃し、駐日外国人外交官として、原敬暗殺事件(1921年)、満州国建国(1932年)、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)などの重大事件を見聞きした。1939年11月にピエール・フォルトムと交代するまでベルギー王国特命全権大使を勤め上げた。
交流
編集バッソンピエールは大使として幅広い交友関係を持っていた。なかでも当時の駐日フランス大使で作家のポール・クローデルとは家族ぐるみの付き合いで、彼の娘を連れて軽井沢でバカンスを楽しんだりもした[3]。関東大震災時には、イギリス人商人が所有する逗子の別荘にクローデルの娘と滞在しており、津波の脅威を目の当たりにした[4]。
軽井沢では、避暑客の間で催されるテニス大会やコンサートに必ず顔を出して、カップや賞品を手渡すような町の代表的存在であったという[5]。
有島生馬の大震記念
編集東京都復興記念館に展示されている有島生馬の「大震記念」には、柳原白蓮(左の女性)や島崎藤村とともに、アルベールが描かれている(白いスーツの外国人男性)[6]。
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著作
編集- 「在日十八年 バッソンピエール大使回想録」磯見辰典訳。鹿島研究所出版会、1972年
- 「ベルギー大使の見た戦前日本 バッソンピエール回想録」 磯見辰典訳(講談社学術文庫、2016年)ISBN 978-4062923804 上掲本を改題の上、再刊
- La Nuit Du 2 Au 3 Aout 1914 Au Ministere Des Affaires Etrangeres de Belgique (Nabu Press)
脚注
編集- ^ Geneanet
- ^ 私とベルギー 磯見辰典 名誉教授談 上智大学・史学科の歴史・点描 磯見辰典、2015年5月30日。
- ^ Paul Claudel, Lettres à sa fille Reine, p.25, L'AGE D'HOMME, 1991.
- ^ 磯見辰典『日本・ベルギー関係史』(白水社, 1989年)353頁
- ^ 加瀬英明『日本人の発想・西洋人の発想: 新個人主義のすすめ』(講談社, 1977年)p.65
- ^ 東京都立横網町公園 慰霊協会から 東京都立横網町公園ウェブサイト。
外交職 | ||
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先代 1910年 - 1911年 Georges della Faille de Leverghem |
駐日ベルギー特命全権大使 1920年 - 1939年 |
次代 1939年 - 1941年 ピエール・フォルトム |