アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク公)
アルブレヒト1世(Albrecht I., 1236年 - 1279年8月15日)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の1人で、ヴェルフ家出身のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(在位:1252年 - 1269年)、ヴォルフェンビュッテル侯(在位:1269年 - 1279年)。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世とブランデンブルク辺境伯アルブレヒト2世の娘マティルドの長男で、リューネブルク侯ヨハンの兄。後のハノーファー王家、イギリス王家(ハノーファー朝)などの男系祖先である。
アルブレヒト1世 Albrecht I. | |
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ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 | |
在位 | 1252年 - 1279年 |
出生 |
1236年 |
死去 |
1279年8月15日 |
埋葬 | ブラウンシュヴァイク大聖堂 |
配偶者 | エリーザベト・フォン・ブラバント |
アーデルハイト・ディ・モンフェッラート | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家 |
父親 | ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世 |
母親 | マティルド・フォン・ブランデンブルク |
生涯
編集1252年の父の死後、その領土を弟のヨハンと共に統治した。ゾフィー・フォン・ブラバントとマイセン辺境伯ハインリヒ3世のテューリンゲンを巡る争いについては、アルブレヒト1世はゾフィーの娘エリーザベトと結婚していた縁でゾフィー側に立ち参戦したが、1263年のベーゼンシュテットの戦いに敗れて捕虜になった。その後解放されたが、テューリンゲンはハインリヒ3世が所有する事になった。
1260年9月にハーメルンやエルツェンを中心に勢力を持っていたエーファーシュタイン伯家のコンラート4世を討伐し、各城を攻略してその影響力を徐々に弱めた。
1267年、ヨハンが所領分割を要求、アルブレヒト1世は1269年にこれを受け入れ、ヨハンは北部のリューネブルクとツェレとハノーファーを、アルブレヒト1世は南部のブラウンシュヴァイク、アインベック、グルーベンハーゲン、カレンベルク、ヴォルフェンビュッテル、ハルツ山地、ゲッティンゲンを領有する事になった。
1279年死去。遺体はブラウンシュヴァイク大聖堂に埋葬、領土は3人の息子の共同統治となった。
子女
編集1254年、ブラバント公アンリ2世とゾフィー・フォン・ブラバントの娘エリーザベトと結婚したが、1261年に死別。
1263年、モンフェッラート侯ボニファーチョ2世の娘アーデルハイトと再婚、7人の子を儲けた。
- ハインリヒ1世(1267年 - 1322年) - グルーベンハーゲン侯
- アルブレヒト2世(1268年 - 1318年) - ヴォルフェンビュッテル=ゲッティンゲン侯
- ヴィルヘルム1世(1270年 - 1292年) - ヴォルフェンビュッテル侯
- オットー(? - 1346年)
- マティルダ(? - 1310年) - グウォグフ公ヘンリク3世と結婚。
- ルター(1275年 - 1335年) - ドイツ騎士団総長
- コンラート(? - 1303年)
爵位・家督 | ||
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先代 オットー1世 |
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 1252年 - 1269年 (ヨハンと共治) |
次代 リューネブルク侯領 ヴォルフェンビュッテル侯領 に分割 |
先代 新設 |
ヴォルフェンビュッテル侯 1269年 - 1279年 |
次代 ハインリヒ1世 アルブレヒト2世 ヴィルヘルム1世 |