アルタン・ハーン
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アルタン・ハーン(Altan Qaγan、中国語: 俺答汗、モンゴル語: Алтан Хаан、1507年又は1508年 - 1582年1月)は、モンゴル帝国(北元)を支配したハーン。ダヤン・ハーンの孫(在位:1551年 - 1582年)。「アルタン」は「黄金」を意味する。
生涯
編集前半生
編集1507年、ダヤン・ハーンの三男・バルス・ボラド・ジノン(サイン・アラグ・ハーン)の次男として生まれる。母はホソイ・タブナンの娘・ボダンである。
1519年に父が死去すると、その後を継いだ。この頃は、内モンゴルのトメト部を治める小領主に過ぎなかった。1524年に祖父が死去すると、その後を継いだボディ・アラグ・ハーンの宗主権を認め、その治世に協力した。
1538年、内乱鎮圧の功績により、チンギス・ハーンを形容する際に使われる「ソート」(suu tu ; 天恵をもつ)の称号を与えられた。1542年には明遠征での功績により、「トゥシェート・セチェン・ハーン」(Tösheetü Sechen Khan ; 補佐する賢明なハーン)の称号を与えられ、正統ハーンのボディ・アラグ・ハーンを補佐する次席ハーンとなる。これにより、内モンゴル高原の西半分に遊牧するモンゴル右翼3万戸の最有力指導者となった。1550年にも明に侵攻し、北京にまで迫った(庚戌の変)。
即位
編集1547年にボディ・アラグ・ハーンが死去し、その後を継いだダライスン・ゴデン・ハーンは、アルタンの勢力拡大を恐れて、興安嶺山脈の南東側に逃亡した。このため、空白地帯となった牧地はアルタンの弟・ハイスハル・フンドゥレン・ハーンとアルタンの長子・ドーゥレン・センゲ・ホンタイジが勢力を伸ばし、アルタンの勢力はさらに拡大した。そしてこれらの勢力拡大を背景にして、1551年には正統ハーン位に推戴され、即位したのである。
その後も明・モンゴルで積極的な活動を続けて勢力を拡大する。1552年からはオイラトに侵攻してカラコルムを支配下に置き、チベットやカザフスタン方面にも進出した。
しかし全盛期は長くは続かず、1570年に孫のパカンナギが明に投降したのを契機に明の宣大総督である王崇古と和平交渉を行ない、1571年に明との和平条約を締結した(隆慶封貢/隆慶和議)。このとき、明から順義王に封じられ、一族の者や配下にも明の官職が与えられた。そして朝貢を許され、その地位に応じて年金が与えられた。しかしモンゴルの庶民は、明に侵攻して略奪することで多くの収入を得ていたため、この和平で略奪行為が不可能になり、不満を持ち始めたという。
最期
編集1580年頃から病に倒れ、1582年1月に死去した。76歳没(1508年生まれならば、75歳没)。長男のドゥーレン・センゲ・ホンタイジがハーン位につき、明から次の順義王と認められた。しかしアルタンの死後、モンゴルは分裂してゆくようになる。
人物
編集- 祖父に劣らぬ智勇兼備の人物で、その才腕と器量でモンゴルを再統一した評価は高い。
- 信心深い一面があり、チベット方面に進出した際、仏教に帰依している。のちに青海に迎華寺を建立し、ダライ・ラマ3世を迎えた。このため、モンゴル全土にチベット仏教が広まり、アルタンの曾孫はダライ・ラマ4世となっている。
- 1542年に山西省に侵攻した際、男女20万人を虐殺し、さらに200万の家畜を略奪し、8万軒を焼き払うという残酷さを見せている。1550年に北京に迫った際、明軍を北京に籠城させるまでに追いつめたこともある。
- 武勇ばかりが目立つが、亡命漢人の官僚、白蓮教徒、さらに明から生活苦で逃亡してきた農民などを積極的に受け入れ、彼らの文化を受け入れてフフホト(内モンゴル自治区の首都)など多くの都市を建設するという優秀な内政手腕も持ち合わせていた。