アラン・ジンター

アメリカの野球選手 (1968-)

アラン・マイケル・ジンターAlan Michael Zinter, 1968年5月19日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州エルパソ出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者。右投両打。

アラン・ジンター
Alan Zinter
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州エルパソ
生年月日 (1968-05-19) 1968年5月19日(56歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 一塁手捕手
プロ入り 1989年 MLBドラフト1巡目
初出場 MLB / 2002年6月18日
NPB / 1999年5月14日
最終出場 MLB / 2004年10月3日
NPB / 1999年8月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

経歴

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プロ入り前

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1986年MLBドラフト23巡目(全体584位)でサンディエゴ・パドレスから指名されたが、アリゾナ大学へ進学した。

プロ入りとメッツ傘下時代

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1989年MLBドラフト1巡目(全体24位)でニューヨーク・メッツから指名され、6月20日に契約。契約後、傘下のA-級ピッツフィールド・メッツ英語版とA級セントルーシー・メッツでプレー。A級セントルーシーでは48試合に出場して打率.239、3本塁打、32打点を記録した。

1990年はA+級セントルーシー[1]とAA級ジャクソン・メッツでプレー。A+級セントルーシーでは98試合に出場して打率.291、7本塁打、63打点、8盗塁を記録した。

1991年はAA級ウィリアムズポート・ビルズでプレーし、124試合に出場して打率.220、9本塁打、54打点、3盗塁を記録した。

1992年はAA級ビンガムトン・メッツ[2]でプレーし、128試合に出場して打率.223、16本塁打、50打点を記録した。

1993年もAA級ビンガムトンでプレーし、134試合に出場して打率.262、24本塁打、87打点、1盗塁を記録した。

タイガース傘下時代

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1994年3月31日にリコ・ブローニャとのトレードで、デトロイト・タイガースへ移籍した。この年は傘下のAAA級トレド・マッドヘンズでプレーし、134試合に出場して打率.238、21本塁打、58打点、13盗塁を記録した。

1995年もAAA級トレドでプレーし、101試合に出場して打率.222、13本塁打、48打点、4盗塁を記録した。オフの10月16日にFAとなった。

レッドソックス傘下時代

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1995年12月13日にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。

1996年は傘下のAAA級ポータケット・レッドソックスでプレーし、108試合に出場して打率.269、26本塁打、69打点、5盗塁を記録した。オフの10月15日にFAとなった。

マリナーズ傘下時代

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1996年11月29日にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ。

1997年は傘下のAAA級タコマ・レイニアーズでプレーし、110試合に出場して打率.287、20本塁打、70打点、3盗塁を記録した。オフの10月17日にFAとなった。

カブス傘下時代

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1997年12月4日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだ。

1998年は傘下のAAA級アイオワ・カブスでプレーし、129試合に出場して打率.287、23本塁打、81打点、3盗塁を記録した。オフの10月16日にFAとなったが、11月12日にカブスとマイナー契約で再契約した。

1999年はAAA級アイオワでプレーし、14試合に出場して打率.255、3本塁打、8打点を記録した。

西武時代

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1999年4月28日に西武ライオンズと契約。当時西武は、この年から入団していたグレッグ・ブロッサーアーキー・シアンフロッコが全く打てないのが災いし、深刻な貧打に陥っていたことからジンターの獲得が決まった。ちなみにAAA級アイオワで同僚だった野茂英雄とバッテリーを組んだ経験もあり、野茂は「日本で活躍できる」と太鼓判を押していた。5月14日のオリックス・ブルーウェーブ戦で日本プロ野球史上6人目の「初試合満塁本塁打」を打つ(他には駒田徳広井口資仁などが記録)など来日当初はそこそこに打っており一時期は4番も打っていたが、日本の投手に慣れられるには時間はかからなかった。なぜか日本ハムファイターズ戦には強く、7月初めの3連戦では3試合とも本塁打を打っているが、全体としてはジリジリと打率は下がっていき、2割割れが近付いてきた8月中旬に二軍に落ちると、そのまま一軍に上がることなく解雇された。

カブス復帰・ダイヤモンドバックス傘下時代

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1999年11月7日に古巣のカブスとマイナー契約を結んだ。

2000年はAAA級アイオワでプレーし、90試合に出場して打率.227、14本塁打、35打点を記録した。8月23日にトレードで、アリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍。傘下のAAA級ツーソン・サイドワインダーズでプレーし、11試合に出場して 打率.361、1本塁打、5打点を記録した。オフの10月15日にFAとなった。

アストロズ時代

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2000年11月1日にヒューストン・アストロズとマイナー契約を結んだ。

2001年は傘下のAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズでプレーし、104試合に出場して打率.265、19本塁打、65打点、1盗塁を記録した。

2002年はAAA級ニューオーリンズで開幕を迎え、63試合に出場。打率.231、11本塁打、39打点、2盗塁を記録した。6月17日にアストロズとメジャー契約を結んだ[3]。プロ13年目・34歳でようやくメジャーの舞台に立ち、翌18日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビュー。7回表に代打として出場したが、一塁ゴロに終わった[4]。この年メジャーでは主に代打として39試合に出場して打率.136、2本塁打、3打点を記録した。オフの10月15日にFAとなったが、12月20日にアストロズとマイナー契約で再契約した[5]

2003年はAAA級ニューオーリンズでプレーし、114試合に出場して打率.254、17本塁打、57打点、1盗塁を記録した。オフの10月15日にFAとなった。

ダイヤモンドバックス時代

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2003年11月12日に古巣のダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。

2004年はAAA級ツーソンで開幕を迎えたが、6月8日にダイヤモンドバックスとメジャー契約を結んだ。昇格後は主に代打として10試合に出場していたが、6月21日に左足の故障で15日間の故障者リスト入りした。6月29日に60日間の故障者リストへ異動し、8月20日に復帰。この年は28試合に出場して打率.206、1本塁打、6打点を記録した。オフの10月11日に40人枠を外れ、AAA級ツーソンへ降格した[6]

2005年はAAA級ツーソンでプレーし、47試合に出場して打率.216、2本塁打、14打点を記録した。オフの10月28日にFAとなった。

アストロズ傘下・独立リーグ時代

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2006年1月9日に古巣のアストロズとマイナー契約を結んだ[7]。この年はAAA級ラウンドロック・エクスプレス[8]でプレーし、99試合に出場して打率.259、12本塁打、44打点、1盗塁を記録した。オフの11月1日にFAとなった。

2007年独立リーグであるアトランティックリーグサマセット・ペイトリオッツに加入。93試合に出場して打率.261、13本塁打、43打点を記録した。この年限りで現役を引退した。

現役引退後

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2008年にダイヤモンドバックス傘下でパイオニアリーグのルーキー級ミズーラ・オスプレイ英語版の打撃コーチに就任。オフの12月3日にA+級バイセイリア・ローハイドの打撃コーチへ異動した[9]

2010年12月3日にAA級モービル・ベイベアーズの打撃コーチへ異動した[10]

2011年12月2日にクリーブランド・インディアンス・マイナー組織の打撃コーディネイターに就任[11]。3年間務めた。

2014年11月4日にアストロズの打撃コーチ補佐に就任した[12]

2015年11月16日、2016年シーズンよりパドレスの打撃コーチに就任する事が発表された[13][14]2017年9月1日に解任された[15]

2018年から2年間はサンフランシスコ・ジャイアンツの育成副部長を務めた。2020年シーズンから2022年までシンシナティ・レッズの打撃コーチを務めた[16]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1999 西武 61 210 173 20 35 8 0 8 67 28 2 1 0 1 35 2 1 59 3 .202 .338 .387 .725
2002 HOU 39 44 44 5 6 2 0 2 14 3 0 0 0 0 0 0 0 19 0 .136 .136 .318 .455
2004 ARI 28 40 34 2 7 2 0 1 12 6 0 0 0 1 5 0 0 15 0 .206 .300 .353 .653
NPB:1年 61 210 173 20 35 8 0 8 67 28 2 1 0 1 35 2 1 59 3 .202 .338 .387 .725
MLB:2年 67 84 78 7 13 4 0 3 26 9 0 0 0 1 5 0 0 34 0 .167 .214 .333 .548

年度別守備成績

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捕手守備


捕手(C)






















2002 HOU 1 2 0 0 0 1.000 0 0 0 0 ----
MLB 0 0 0 0 0 . 0 0 0 0 .
一塁守備


一塁(1B)












1999 西武 1 8 0 0 2 1.000
2002 HOU 8 24 2 0 3 1.000
2004 ARI 8 41 3 1 1 .978
NPB 1 8 0 0 2 1.000
MLB 16 65 5 1 4 .986

記録

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NPB

背番号

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  • 42(1999年)
  • 43(2002年)
  • 25(2004年)
  • 55(2015年)
  • 22(2016年 - 2017年)
  • 59(2020年 - 2022年)

脚注

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  1. ^ 1990年よりクラスがA級からA+級に変更
  2. ^ 1992年より球団名変更
  3. ^ Astros purchase contract of Alan Zinter”. MLB.com Astros Press Release (2002年6月17日). 2015年1月1日閲覧。
  4. ^ Scores for Jun 18, 2002”. ESPN MLB (2002年6月18日). 2015年1月1日閲覧。
  5. ^ Houston signs hurler Jared Fernandez”. MLB.com Astros Press Release (2002年12月20日). 2015年1月1日閲覧。
  6. ^ Diamondbacks outright three off 40-man roster”. MLB.com D-backs Press Release (2004年10月14日). 2015年1月1日閲覧。
  7. ^ Astros sign Miller to one-year contract”. MLB.com Astros Press Release (2006年1月9日). 2015年1月1日閲覧。
  8. ^ 2005年から2010年までアストロズ傘下
  9. ^ D-backs announce Minor League coaching staffs”. MLB.com D-backs Press Release (2008年12月3日). 2015年1月1日閲覧。
  10. ^ D-backs announce Minor League coaching staffs”. MLB.com D-backs Press Release (2010年12月3日). 2015年1月1日閲覧。
  11. ^ Indians announce 2012 Player Development staff assignments”. MLB.com Indians Press Release (2011年12月2日). 2015年1月1日閲覧。
  12. ^ Astros name Alan Zinter assistant hitting coach”. MLB.com Astros Press Release (2014年11月4日). 2015年1月1日閲覧。
  13. ^ Alan Zinter hired as Padres hitting coach - SanDiegoUnionTribune.com”. The San Diego Union-Tribune (2015年11月16日). 2015年11月18日閲覧。
  14. ^ パドレス 新打撃コーチに元西武の助っ人が就任”. スポーツニッポン (2015年11月17日). 2015年11月18日閲覧。
  15. ^ Dennis Lin (2017年9月1日). “Seeking a 'different voice,' Padres fire hitting coach Alan Zinter” (英語). San Diego Union Tribune. 2017年9月28日閲覧。
  16. ^ Reds announce new hitting department structure” (英語). MLB.com (2019年10月24日). 2019年11月4日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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