アメミット
アメミット[1] 、アメミト(Ammit)[2]、またはアンムト(Ammut)は[3][注 1]、古代エジプトに伝わる幻獣の一種。その名は「死者を食らう(呑む)もの」を意味する。
冥界アアルの転生の事前の裁判にて、秤にかけられた真理の象徴マアトの羽根(真実の羽根)よりも重かった死者の心臓 (Ib) を貪り喰らう。喰われた魂は転生できず、永遠の破滅を意味した。
頭は鰐、鬣と上半身が獅子、下半身は河馬の合成獣に描かれるのが、当初(エジプト新王国時代)では通常だったが、のちには少し異なる作風がみられた。
語釈
編集アメミット(古代エジプト語:ꜥm-mwt;[4] Ʒmt mwtw[5])は、直訳すると「死者を食らうもの」[8][4]、あるいは「死者を呑みこむもの」を意味する[9]。
接頭部ꜥmは「呑み込む」を意味し[10]、接尾部mwt (ムウト)は、直訳せば「死んだ者、死者」だが、この死者審判の場面においては、 akhu(アク)という「祝福された死者」になれなかった(真実マアトの道を全うできなかった)破滅の運命の死者を指している[6]。
心臓の計量の審判
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心臓とマアトの羽根を天秤にかけて計量をおこない、重りが釣り合わなかった場合、死者の魂が永遠に消滅するという審判は、エジプトの葬礼にともなう定番の場面で、アメミットがその心臓を食らうものとして描かれる場合もしばしばあるが[13]、簡潔な絵画ではこの場面でホルス神やアヌビス神しか天秤にかかわっていないものもある[14][15]。
『死者の書』第125章ではかねてよりこの場面の画が付帯するのが一般的で[14][5]、エジプト新王国時代(第18王朝~第20王朝)においては葬送文書パピルスのほか墓の壁画に描かれたが[14]、後の時代には棺の内側(第21王朝)や、外側にも描かれるようになった[14]。
『死者の書』第125章においては、心臓が、ジャッカルの頭をもつアヌビスによってマアトの天秤で真実の羽根 (en) と重さを比べられる様子を表している。神々の書記官である、朱鷺の頭をもつトートがその結果を記録する。もし死者の心臓が羽根より軽ければ、死者は死後の生活に進むことを許される。もしそうでなければ、死者の心臓は、待機しているアメミットによって喰われ、魂が滅亡する[16][17]。喰われた魂は二度と転生できず霊魂の不滅が信じられていた古代エジプトでは、それは永遠の破滅を意味した[18][7]。
『死者の書』にアメミットを描いた例としては《アニのパピルス》(紀元前1250年頃制作)や[16][19]、《フネフェルのパピルス》(紀元前1275年頃制作。いずれも第19王朝)が挙げられる[20][21][7]。
『死者の書』は死者にとっての導引書(手引き書)のみでなく、保証符の役目もあるため、これが副葬されていれば審判を難なく通過でき、アメミットの空腹は満たされぬままである[5]。死者は126章の火の湖を渡らず、素通りしてオシリス神への謁見がかなう[5]。
『死者の書』は、中王国時代の棺に記された呪文集、いわゆるコフィン・テキストから発展したことは明らかであり、たとえばある呪文(CT335)によれば、「数百万を呑むもの」(アム=ヘフꜥm-ḥḥ[7])が死者審判の判決を執り行った[5]。
図像学
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アメミットは女性(牝)とされており[22]、一般的には、頭部がワニ(ナイルワニ)、前足・上半身がライオン(またはヒョウ[7][22][24])、下半身がカバに似た合成獣に描かれる[17][12][22]。よって体幹は雌ライオンとみなす解説があるが[25]、ライオンに特定する特徴として
ただし、アメミットがワニ=獅子=カバの合成獣として描かれたのは、エジプト新王国時代の頃までの慣習であり[14] 、後の時代にはカバのような頭をし、乳の垂れ下がった犬のような胴体をした獣として描かれるようになった[14][29]。例えば貴族アンクホル(第22王朝)の棺蓋に描かれたアメミットがこの画風である[14][注 3][注 4]。
ワニ=獅子=カバの合成獣として描かれたのは、悪しき魂がアメミットに滅亡させられることはまぬかれないことを意味していた[7]。
注釈
編集- ^ アミマッド、アムムト、アーマーンとも[要出典]。ローマ字ではAmmit、Ahemaitとも綴る。
- ^ ロイヤルオンタリオ博物館の遺骸布に描かれたアメミットは"三部一体のかつらのように垂れ下がったたてがみ mane that hangs down like a tripartite wig"を有する[27]。
- ^ 第21王朝以降、棺の外側にも心臓の計量の審判の場面が描かれるようになったことはすでに触れた
- ^ 新王国時代の《アニのパピルス》第30B章のアメミットについては既にふれたが、同148章(第11プレート)の第五ピュロン(塔門)の守護神[30]は、ヘネト(Hentet-Arqiu)であるが、その様相を具現してそこに居るのはじつはアメミットだとする解説があり、その守護神は"カバの頭と胴体、垂れ下がる乳房、ライオンの脚、クロコダイルの鼻づらをもち、前足で大きな刃物を持つ(後略)怪異な女の悪魔 monstrous female demon with hippopotamus body and head, pendulous breasts, lion legs and crocodile snout, squatting, with open jaws and tongue extended, forepaws, holding huge knife,.."として描かれる[31]。
出典
編集- 脚注
- ^ 小川 (1997), p. 167等で確認できる表記。
- ^ 近藤 (2009)「古代エジプトの霊魂観」で確認できる表記。
- ^ イオンズ (1991)『エジプト神話』p. 288で確認できる表記。
- ^ a b Erman, Adolf [in 英語]; Grapow, Hermann [in 英語], eds. (1926). "ꜥm". Wörterbuch der ägyptischen Sprache (PDF). Vol. 1. Berlin: Akademie-Verlag. p. 104.9.
ꜥm-mwt Totenfressen (Name des Tiers beim Totengericht) [死者喰らい/屍喰〔トーテンフレッセン〕(死者審判における獣の名)]
- ^ a b c d e f Snape, Steven (2011). “Rekhmire and the Tomb of the Well-Known Soldier”. Ancient Egyptian Tombs: The Culture of Life and Death. John Wiley & Sons. p. 198. ISBN 9781405120890
- ^ a b Taylor, John H. (2001). “Death and Resurrection in Ancient Egyptian Society”. Death and the Afterlife in Ancient Egypt. University of Chicago Press. pp. 36–38. ISBN 9780226791647
- ^ a b c d e f g Hart, George (April 8, 1986). A Dictionary of Egyptian Gods and Goddesses (1st ed.). Taylor & Francis Group. pp. 3–4. ISBN 9780203136447;
- ^ 'devourer of the dead';[6] 'Devoureress of the Dead'[7]
- ^ 'Swallower of the Dead'.[5]
- ^ Erman & Grapow (1926), p. 103. ꜥm 'verschlucken [swallow]'
- ^ 近藤 (2009), pp. 19–20.
- ^ a b ヴェロニカ・イオンズ『エジプト神話』酒井傳六訳(新装版)、青土社、1991年、288頁。ISBN 978-4-7917-5145-7。
- ^ 吉村 (2005)『古代エジプトを知る事典』p. 90。
- ^ a b c d e f g Taylor, John H. (2019). “The Mummies and Coffins of Ankh-hor and Heribrer”. In Kalloniatis, Faye. The Egyptian Collection at Norwich Castle Museum: Catalogue and Essays. Oxbow Books. p. 23. ISBN 9781789251999
- ^ Bunson, Margaret (2012). “Judgment Halls of Osiris” (English). Encyclopedia of Ancient Egypt (3rd ed.). Facts On File
- ^ a b 小川 (1997), pp. 166–167.
- ^ a b c d 近藤 (2009), p. 19.
- ^ 吉村作治『古代エジプトを知る事典』(新装版)東京堂出版、2005年、90頁。ISBN 978-4-490-10662-6。
- ^ Von Dassow (2008).
- ^ “Page from the Book of the Dead of Hunefer”. 大英博物館 (British Museum). 2012年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年2月2日閲覧。
- ^ 近藤 (2009), p. 20.
- ^ a b c Wilkinson, Richard H. (2003). The complete gods and goddesses of ancient Egypt. Internet Archive. Thames & Hudson. pp. 218. ISBN 978-0-500-05120-7
- ^ Von Dassow (2008), Pl. 3.
- ^ アニのパピルスの『死者の書』第30B章(第3プレート)では、アメミットの胴体部に斑点がみえる(右の画像参照)[23]。
- ^ Venit, Marjorie Susan (2016). “Tradition and Innovation in the Tombs of the Egyptian Chora”. Visualizing the Afterlife in the Tombs of Graeco-Roman Egypt. Cambridge University Press. p. 142. ISBN 9781107048089
- ^ 大英博物館蔵『フネフェルのパピルス』(右図)にもたてがみが描かれる。同書のアメミットの模写(線画)がハートの事典の「アメミット」の項にみえる[7]。
- ^ a b Gibson, Gayle (2021). “The Place of Silence: Musings on a Partial Ptolemaic Burial Shroud Recently Rediscovered in the Royal Ontario Museum”. In Geisen, Christina; Li, Jean; Shubert, Steven B. et al.. His Good Name: Essays on Identity and Self-Presentation in Ancient Egypt in Honor of Ronald J. Leprohon. ISD LLC. p. 180. ISBN 9781948488389
- ^ Von Dassow (2008), p. 155.
- ^ Venit, Marjorie Susan (2009). “Avaleuses et dévoreuses: des déesses aux démones en Égypte ancienne”. Chronique d'Égypte 84: 13 .
- ^ Von Dassow (2008), Pl. 11.
- ^ “Papyrus of Ani, sheet 11 (vignette)”, The Archive for Research in Archetypal Symbolism (ARAS), JSTOR community.11652438
- 参照文献
- 小川正廣「〈運命の秤〉についての一考察」『名古屋大學文學部研究論集. 文學』1915年8月20日、943–960頁。
- 近藤二郎「古代エジプトの霊魂観」『アジア遊学』128 古代世界の霊魂観、2009年12月、13–22頁。
- Von Dassow, Eva, ed (2008). The Egyptian Book of the Dead: The Book of Going Forth by Day - The Complete Papyrus of Ani Featuring Integrated Text and Full-Color Images. Chronicle Books. ISBN 9780811864893