アブドゥル・カリーム (ヤルカンド・ハン国)
ヤルカンド・ハン国のハン
アブドゥル・カリーム(ウイグル語: ئابدۇلكەرىم, ラテン文字転写: Abdul Karim, 1529年 - 1592年)は、ヤルカンド・ハン国の第3代[1]君主。
生涯
編集アブドゥッラシード・ハン1世の次男[2]。兄のアブドラッティーフはカザフ人との抗争で戦死していたため、1560年に父が死去するとその跡を継いだ。カシュガルの総督であった四弟のシャーフィーに譲位しようとしたが、シャーフィーは固辞したため果たせずに終わった。
1570年に弟のシャーフィー・ムハンマド・アブドラッラヒームとクライシュ・スルタンらを東のトルファンへ派兵した。東征軍はウイグルスタン・ハン国のマスウードを捕虜とし、ウイグルスタン・ハン国を滅ぼして[2]西域を統一した。アブドゥル・カリームの治世におけるヤルカンド・ハン国の版図は、東は明の嘉峪関、南は崑崙山脈とアルチン山脈、西南はカラコルム山脈とラダック・ボロールに及んだ。西はパミール高原を境にムガル帝国と、アライ山脈を境にシャイバーニー朝とそれぞれ接した。北は天山山脈に及び、カザフ・キルギス・オイラトと接した。
史家のシャイフ・マフムード・チュラスはその著書『編年史』において、公正・賢明な君主にして敬虔なムスリムであり、常にウラマーや大臣らと国事を論じていたと評し、その名声はメッカにまで伝わったと称賛している[2]。1592年に死去。五弟のムハンマドがその跡を継いだ。
出典
編集参考資料
編集- 丸山鋼二「ヤルカンド・ハン朝の建国と「聖戦」: 新疆イスラム教小史⑦」『文教大学国際学部紀要』第24巻第2号、文教大学、2014年1月、47-64頁、CRID 1050001338027025664、ISSN 0917-3072、NAID 120006420345。
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