アドルフ・フリードリヒ3世 (メクレンブルク公)
アドルフ・フリードリヒ3世(ドイツ語: Adolf Friedrich III.、1686年6月7日 - 1752年12月11日)は、神聖ローマ帝国の領邦国家であるメクレンブルク=シュトレーリッツの君主(在任:1708年 - 1752年)。
アドルフ・フリードリヒ3世 Adolf Friedrich III. | |
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在位 | 1708年5月12日 - 1752年12月11日 |
先代 | アドルフ・フリードリヒ2世 |
次代 | アドルフ・フリードリヒ4世 |
配偶者 | ドロテア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーン |
称号 | メクレンブルク=シュトレーリッツ公 |
家名 | メクレンブルク=シュトレーリッツ家 |
父親 | アドルフ・フリードリヒ2世 |
母親 | マリア・フォン・メクレンブルク=ギュストロー |
出生 |
1686年6月7日 シュトレーリッツ |
死亡 |
1752年12月11日 ノイシュトレーリッツ |
生涯
編集メクレンブルク=シュトレーリッツ公アドルフ・フリードリヒ2世とマリア・フォン・メクレンブルク=ギュストローの息子として、シュトレーリッツで生まれた[1]。父のアドルフ・フリードリヒ2世は1701年にメクレンブルク=シュヴェリーン公と合意して、メクレンブルク=シュトレーリッツ公国を成立させた。
1708年5月12日、父の死に伴いメクレンブルク=シュトレーリッツ公に即位した。1712年、メクレンブルクの市街地と城が焼け落ちてしまったため、アドルフ・フリードリヒ3世一家は狩り小屋に住むことを余儀なくされた。狩り小屋の周辺にノイシュトレーリッツという町が建設されると、アドルフ・フリードリヒ3世は1733年にノイシュトレーリッツを正式に設立、さらに1736年にはそれを首都と定めた。
アドルフ・フリードリヒ3世はノイシュトレーリッツで死去、甥のアドルフ・フリードリヒ4世が公位を継承した[1]。
家族
編集1709年4月16日、アドルフ・フリードリヒ3世はラインフェルトでシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーン公ヨハン・アドルフの娘ドロテア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーンと結婚した。2人は娘を2人もうけた[1]。
- マリア・ゾフィー(1710年 - 1728年)
- マグダレーナ・クリスティーネ(1711年 - 1713年)
脚注
編集- ^ a b c Marek, Miroslav. “House of Mecklenburg genealogy” (英語). Genealogy.EU. 2018年12月8日閲覧。
アドルフ・フリードリヒ3世
メクレンブルク家分家
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爵位・家督 | ||
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先代 アドルフ・フリードリヒ2世 |
メクレンブルク=シュトレーリッツ公 1708年 - 1752年 |
次代 アドルフ・フリードリヒ4世 |