アセノヴグラト

ブルガリアの町

座標: 北緯42度1分 東経24度52分 / 北緯42.017度 東経24.867度 / 42.017; 24.867

アセノヴグラトブルガリア語:Асѐновград / Asenovgrad)は、ブルガリア中部の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、プロヴディフ州に属する。アセノヴグラードアセノフグラードといった表記も見られる。

アセノヴグラト
Асеновград
アセノヴグラトの市章
アセノヴグラトの市章
アセノヴグラトの位置(ブルガリア内)
アセノヴグラト
アセノヴグラト
ブルガリア内のアセノヴグラトの位置
 ブルガリア
州(オブラスト)プロヴディフ州
基礎自治体アセノヴグラト
自治体全域の人口56501[1]
(2009年06月15日現在)
町の人口68737[2]
(2009年06月15日現在)
ナンバープレートPB
標高232 m
標準時EETUTC+2
夏時間EESTUTC+3

紀元前400年から紀元前300年ごろ、トラキア人によって築かれ、ステニマホス(Stenimahos)の名で呼ばれた。紀元前72年には、ローマ帝国による黒海への拡張の中でローマ軍に征服された。その後長い平穏な時を経て、251年ゴート族に破壊されたが、後に再建された。395年ローマ帝国が東西に分割された際には東ローマ帝国の配下に置かれた。西暦700年ごろ、スラヴ人がこの地域に進入し、人口の大部分を占めるようになった。それまでの間、町はギリシャ語でステニマホス(Στενήμαχος / Stenímachos)と呼ばれた。

ブルガリア帝国とビザンティン帝国(東ローマ帝国)との戦争の時代、町はブルガリアの軍事要塞として活用された。ブルガリアとラテン帝国との関係悪化に伴い、1230年にブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世は町の要塞を強化した。「アセノヴグラト」の呼称はこれにちなんで、皇帝の名をとって1934年に命名されたものである。

ブルガリアがオスマン帝国に征服されると、ステニマホスにはムスリムの住民が住み始めた。こんにちではアセノヴグラト自治体の人口の2割ほどがムスリムである。その他の住民のほとんどはキリスト教正教徒である。

内部マケドニア革命組織の革命家としてよく知られるタネ・ニコロフは、晩年をこの地で過ごし、1947年に死去した。

アセノヴァ要塞(アセン要塞、Asenova krepost)は、イヴァン・アセンの時代の要塞跡であり、アセノヴグラトの町の中心から2キロメートルのところにある。同地には、トラキア人の時代の生活の痕跡も残されている。

アセノヴグラトはワインの生産地としても知られており、ここで造られたワインはブルガリアじゅうに流通している。また、ウェディングドレスの生産でよく知られ、ブルガリア各地から結婚式を控えた人々がこの町を訪れる。

町には、ヴェチェルニク(вечерник / vechernik、「夜の風」)と呼ばれる風が吹く。

町村

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アセノヴグラト基礎自治体(Община Асеновград)にはその中心であるアセノヴグラトをはじめとする、以下の町村(集落)が存在している。

姉妹都市

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ギャラリー

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脚注

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  1. ^Главна Дирекция - Гражданска Регистрация и Административно Обслужване (2009年6月15日). “Таблица на населението по постоянен и настоящ адрес” (ブルガリア語). 2009年7月30日閲覧。