アギシュムバ
アギシュムバは、紀元2世紀中葉、クラウディオス・プトレマイオスの『地理学』において、アフリカのサブサハラにあると言及された土地。プトレマイオスが提示した地理座標に基づく地図を参照すると、ヌビアを除く(当時の地理概念としての)スーダンのほぼ全域がアギシュムバとされ、人の住む世界「エクメーネ」の南西端に位置する広大な領域である。
プトレマイオスによると、アギシュムバはフェザーンから南方へ4ヶ月かけて行ったところにあり、サヴァンナの大型動物が棲息し、大きな山がたくさんあるという。[1]
プトレマイオスは紀元107年から115年の間に書かれたテュロスのマリノスの地理書(現存せず)を参考にしている。マリノスにはレプティス・マグナの商人ユリウス・マテルヌスの旅の記録が記載されており、それによると、紀元83年から92年の間にガラマンテス族の王がアギシュムバに進軍したという[2]。ガラマンテス王の軍事行動の目的は、アギシュムバの反抗的な属領に威を示し、進貢関係を再構築しようとしたものと考えられる[3]。
後の歴史家は、(ガラマンテス王が出兵した)アギシュムバの位置をティベスティ山地やアイル山地、チャド湖近辺などに比定しようと試みたがうまくいっていない。アラブとの交易以前にもトリポリ、フェザーン、カワール渓谷、チャド湖をつなぐサハラ交易が盛んであったことがわかっており、プトレマイオスの記述にも明らかであるため、この地をチャド湖東南域に比定する説が一定の説得力を持つ。
しかしながら、チャド湖近辺には高い山がなく、プトレマイオスの「名もない大きな山がたくさんある」という記述[1]にはあてはまらない。なお、さらに古い時代の歴史家によると、アギシュムバがフェニキア人の影響を受けて中央スーダン(中央アフリカ)に成立した国であることが示唆され、チャド湖東南域説をとる場合、アラビア語で書かれた地理書で「カネム王国」として言及される国の前身であると見なしうるかもしれない。[3]
脚注
編集参考文献
編集- Wilhelm Tomaschek: Agisymba. In: Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft (RE). Band I,1, Stuttgart 1893, Sp. 822.
- Desanges, Jehan, Recherches sur l'activité des méditerranéens aux confins de l'Afrique, Rom 1978 (hier: S. 197-213).
- Huss, Werner: "Agisymba", Neuer Pauly, Bd. I, Stuttgart 1996 (Sp. 260).
- Lange, Dierk, Ancient Kingdoms of West Africa, Dettelbach 2004 (hier: S. 280-4).
- プトレマイオス『地理学』における言及箇所: I 6f, 7.2, 8.2, 8.5, 9.8, 10.1, 11.4f, 12.2; IV 8.5, VII 5.2
外部リンク
編集- Dierk Lange: "West Africa and the Classical World - neglected contexts" (PDF; 1,2 MB) in: H. Bley et al. (Hg.), Afrika im Kontext: Weltbezüge in Geschichte und Gegenwart, 19 Internationale Tagung des VAD, Hannover 2004, 20 S.