アイリーン・ダイアモンド
アイリーン・ダイアモンド(Irene Diamond、1910年5月7日 - 2003年1月21日)は、ハリウッドで活躍したアメリカ合衆国のタレント・スカウト。後年には、フィランソロピー(慈善活動)で広く知られた。
生涯
編集ペンシルベニア州ピッツバーグで、移民の両親のもとにアイリーン・リヴァイン(Irene Levine)として生まれた[1][2]。 若いころはアイリーン・リー(Irene Lee)という名で、ニューヨークで女優を目指したが、もっぱらモデルとして活動した[2][3]。 ニューヨークのワーナー・ブラザースにフリーランスとして出入りした後、ハリウッドの本社で、ハル・B・ウィリス(Hal B. Wallis)の下で脚本編集者(Script editor)として働くことになった。以降、25年にわたって脚本の発掘と推薦に従事し、『マルタの鷹 (1941年の映画)|マルタの鷹』や『愛の勝利』の原作を発掘した。後年、ウィリスがパラマウント映画に移った後も協力関係は続いた[2]。 タレント・スカウトとしては、バート・ランカスター、カーク・ダグラス、ロバート・レッドフォードなどの活躍に途を拓き[2]、また、脚本編集者(Script editor)として、『カサブランカ』の原作となった「Everybody Comes to Rick's」という脚本の購入を会社(ワーナー・ブラザース)に強く勧めたことがよく知られている[2][4]。
1942年には、不動産業者として知られたアーロン・ダイアモンド(Aaron Diamond)と結婚して、ニューヨークに拠点を戻し、以降、終生ニューヨークに住んでいた[2]。1984年に、夫が巨額の遺産を残して急死した後、アイリーンは夫の名を冠した財団(the Aaron Diamond Foundation)の代表となり、1987年から1996年までの10年間に、ニューヨーク市の様々な組織に資金提供を行なった[4]。対象となった寄付先にはAIDSなど医療に関するものや、ジュリアード音楽院など教育・文化に関するものが含まれていた。
1999年には、当時のクリントン大統領からナショナル・メダル・オブ・アーツ(国民芸術勲章)(National Medal of Arts)を授与された。
出典・脚注
編集- ^ Goyette, Angela. “Diamond, Irene: A Diamond in the Rough”. LearningToGive.org. 2011年10月24日閲覧。
- ^ a b c d e f Saxon, Wolfgang (2003年1月23日). “Irene Diamond, Philanthropist, Is Dead at 92”. The New York Times 2011年10月24日閲覧。
- ^ Wisner, Heather (June 2003). “Irene Diamond - Obituary”. Dance Magazine. オリジナルの2012-07-09時点におけるアーカイブ。 2011年10月24日閲覧。.
- ^ a b Clyde, Allan R. (1998). “A Conversation With Irene Diamond”. Foundation News & Commentary 39 (2). オリジナルの2006年9月29日時点におけるアーカイブ。 2011年10月24日閲覧。.
関連項目
編集[[Category:2003年没]