なぜ、植物図鑑か』(なぜ、しょくぶつずかんか)は、日本の写真家写真評論家中平卓馬の映像・写真評論集。1973年に晶文社から刊行された。1960年代後半から1970年代前半の日本の写真評論を語る上で欠かすことの出来ない評論集である。また、この評論集のために書き下ろされた評論「なぜ、植物図鑑か」を指すこともある。

2001年、オンデマンド出版〈リキエスタ〉の会より『中平卓馬の写真論』ISBN 4887521367 として「なぜ、植物図鑑か」「記録という幻影 ドキュメントからモニュメントへ」「グラフィズム幻想論」の3編をまとめた書籍が出版された。

2007年、ちくま学芸文庫から復刊された。

各評論のタイトル

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第一章 たえざる視覚の収奪

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  • 記録という幻影 ドキュメントからモニュメントへ (→あさま山荘事件沖縄返還協定粉砕抗議)
  • グラフィズム幻想論 (→ポルノ
  • 現代芸術の疲弊 第七回パリ青年ビエンナーレに参加して
  • 写真、一日限りのアクチュアリティ

第二章 日付、場所、行為

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第三章 今日、見るとはなにか

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  • 何をいまさらジャズなのか 場論序説
  • アフリカから帰る
  • 舞台の上、スクリーンの上の裸の直接性を
  • アジテイションとしての映画は可能か
  • 複製時代の「表現」とはなにか 「マッド・アマノ=白川義員裁判」をめぐって
  • ディスカバー・ジャパン とらわれの旅の意味について (大阪万博
  • いづれにせよ考えさせられる問題です 報道における日本的なるもの

「なぜ、植物図鑑か」

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雑誌『美術手帖』1972年8−9月合併号に掲載された吉川知生の投書に中平卓馬が応えるもので、評論というよりは彼のそれまでの写真作品からの訣別、そして新たな作品への意思表示であるといえる。

ある雑誌に発表された「記録という幻影 ドキュメントからモニュメントへ」に対して吉川は、中平の写真からポエジーが喪われてゆくこと、そして一方で批評家としての饒舌さを増していくことを批判した。

これに対して中平は「あるがまま世界に向き合うこと」こそこの時代の表現であるとし、その目標として「図鑑」を挙げた。また、動物には「なまぐささ」が、鉱物には「彼岸の堅牢さ」があるとして、その中間にある「植物」の図鑑を考えた。(→カール・フォン・リンネ博物学

関連項目

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評価

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写真評論家飯沢耕太郎はこの「なぜ、植物図鑑か」と「カメラ毎日」の休刊が日本写真史の転換点であったと考えている。(『戦後写真史ノート—写真は何を表現してきたか』中公新書 ISBN 9784121011121

関連書籍

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関連項目

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