さくら丸 (帝国海事協会)

さくら丸(さくらまる)は、帝国海事協会貨客船[1]、義勇艦[3]。「櫻丸[3][4]とも。

さくら丸
基本情報
船種 貨客船
貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 帝国海事協会
大洋汽船
靭商船
運用者 帝国海事協会
大阪商船
鉄道省
大洋汽船
靭商船
建造所 三菱造船所
母港 東京港/東京都
大阪港/大阪府
神戸港/兵庫県
信号符字 LFMH
IMO番号 11088(※船舶番号)
改名 さくら丸→五洋丸
建造期間 824日
経歴
発注 1906年5月12日
起工 1906年7月9日
進水 1908年6月6日
竣工 1908年10月9日
就航 1909年2月3日
最後 1931年海難沈没
要目
総トン数 3,204.70トン[1]
純トン数 1,730.0トン[1]
載貨重量 4,920.0トン[1]
排水量 3,881.0トン[1]
垂線間長 102.10m[1]
型幅 13.10m[1]
型深さ 7.28m[1]
満載喫水 5.18m[1]
ボイラー 宮原式水管缶[1]
主機関 三菱パーソンス式DCタービン機関 3基(1908年)[1]
三連成レシプロ機関 2基(1918年)[2]
推進器 3軸(1908年)
2軸(1918年)
出力 1,820馬力(1918年)
最大出力 8,732PS(連続・1908年)[1]
最大速力 21.392ノット(試運転)[1]
旅客定員 一等:47名
二等:53名
三等:268名[1]
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船歴

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日露戦争中の1904年、帝国海事協会は募金により、平時は商船だが有事の際には仮装巡洋艦となるような義勇艦隊を作ることを計画[1][5]。募金を募ったところその集まりはよく、造船奨励法の適用も受けて「さくら丸」、次いで「うめが香丸」が建造された[5][6]

2隻とも三菱造船所で建造され、「さくら丸」は1906年5月12日に発注、同年7月9日に起工、1908年6月6日に進水し、同年10月9日に竣工した[7][8]

1908年11月17日、神戸沖の観艦式に参列[9]

1909年2月3日に大阪商船に貸与され、神戸・基隆線に就航した[1][9]。しかし「さくら丸」は動揺が激く、宮原式ボイラーの出す黒煙もひどかった[10]。乗客から不評であった「さくら丸」の運航は2年で終わりとなった[10]

1911年には鉄道院に貸与されて関釜航路に就航した[1][9]

1917年10月30日、大洋汽船に売却[11]。1918年、横浜船渠貨物船に改装され「五洋丸」と改名された[11][2]。この時同時に機関も三連成レシプロ機関2基に置き換えた[2]

1921年、靭商船に売却[2]。1927年3月に多聞汽船の「第十八多聞丸」と接触事故を起こした[12]

1931年、海難事故で沈没[1]

「さくら丸」と「うめが香丸」の商船としての評価は良くなく、3隻目の「さかき丸」は使用者の要求を容れて設計された[1][5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 山田早苗「日本商船隊の懐古No. 25」46ページ
  2. ^ a b c d さくら丸”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年8月21日閲覧。
  3. ^ a b 『創業百年の長崎造船所』530ページ
  4. ^ 『大阪商船株式會社五十年史』74ページ
  5. ^ a b c 高城清「大正時代神戸で生まれた鉄道連絡船」67ページ
  6. ^ 山田早苗「日本商船隊の懐古No. 25」46-47ページ
  7. ^ 『日本海事協會五十年史』45ページ
  8. ^ 『創業百年の長崎造船所』531ページ
  9. ^ a b c 『日本海事協會五十年史』45ページ
  10. ^ a b 『笠戸丸から見た日本』197ページ
  11. ^ a b 『日本海事協會五十年史』46ページ
  12. ^ 『海員審判所裁決錄 昭和三年度』高30-高32ページ

参考文献

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  • 山田早苗「日本商船隊の懐古No. 25」『船の科学』第34巻第7号(No. 393)、46-47ページ
  • 高城清「大正時代神戸で生まれた鉄道連絡船」『船の科学』第53巻第10号(No. 624)、62-69ページ
  • 神田外茂夫 編『大阪商船株式會社五十年史』大阪商船、1934年
  • 日本海事協會 編『日本海事協會五十年史』日本海事協會、1949年
  • 『海員審判所裁決錄 昭和三年度』日本海事學會、1930年
  • 『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年
  • 宇佐美昇三『笠戸丸から見た日本 したたかに生きた船の物語』海文堂出版、2007年。ISBN 978-4-303-63440-7

関連項目

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