Wikipedia:コメント依頼/イザヤ
イザヤさんのこれまでの編集行為について、コメントを依頼します。(逸脱が多岐かつ大量なため、超長文はどうかご容赦下さい。)
〔追記:依頼分が長文すぎたこともあってか、誰が依頼者か分からないとの指摘を受けたので、異例ではありますが、依頼文(これまでの経緯)本文の最後以外にも適宜署名を行ないました。また、依頼文中での追記部分にも追記日時を明記する目的で原則署名しています。なお、念のために申し添えておきますが、今回の署名付加は依頼文アップ時のものではなく今回の署名付加時のものです。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:17 (UTC)〕
これまでの経緯
編集イザヤさんは、自己の主張を通そうとする余り、議論や合意を無視して強引な編集をすることが多く、また、時に自分で中立的な観点から逸脱した編集を行ないながら、自分の属するキリスト教の教派と違う視点で加筆した相手をPOVだとしてその記述を排除、ないしは徒にその記述を分割させようとする傾向が目立つ。
とにかく大きな問題は、
- 議論中ないしは合意された事柄に違背するような編集を平然と行なうこと、
- 議論になった場合に相手の質問に答えず、はぐらかし(論点ずらし)とも見える反応を示して、自説を蕩々と論じ立てることで必要以上に議論をややこしくしてしまうこと、
- 自説に固執し、議論で相手の主張を少しでも容れようとする姿勢がないため、対話が極めて難しく、
- 時に出典を実際に見ないで出典付きの記事を作成することも間々見られる上に、
- 一番特徴的な傾向として、スタブを量産しては放置を繰り返し、
- 自己の編集結果による責任を一切取らず、その尻ぬぐいを他の編集者にさせた上に、何かあると反論ばかりして議論を誘発してばかりいること、
などが挙げられる。
イザヤさんに意図的・自覚的な悪意までは感じないまでも、コミュニティーを非常に疲弊させてしまう。他の悪質なユーザーに比べたらまだましだと言う人も中にはいるものの、要するに「塵も積もれば山となる」の典型で、大変なユーザーであることに変わりはない。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
問題点
編集イザヤ氏の問題編集は数が余りにも多いため、具体例を指摘する前に、まずは以下に主な問題点を箇条書きにして示すことにする。
POVな編集
編集イザヤ氏は、ある特定の立場、すなわち自己の保守的な教派に偏った編集を指向する傾向が強く認められる。そのため、特徴的な傾向として、記事内の非キリスト教的、或は自己の教派と違う見解の記述を排除して、やたらと記事を分割したがる。これはWikipediaの規則上NPOVと批判されないための方策なのだろうが、どう見ても極めてPOVな編集であり、結果的にスタブ量産に繋がることになる。とにかく、Wikipediaの百科事典としての質を落とす行為であり、また、彼の行為は百科事典の利便性を極めて損う編集であると言える。
- 例:「ノート:原理主義」 - 「ノート:カリスマ的支配」 - 「ノート:ヘレム」その他無数
議論での不誠実かつ自己中心的な態度、議論の無視
編集イザヤ氏は、事前の議論をせず、また、議論を無視して「自分中心に事を進めようとする」傾向が余りにも多い。そのため、たとえある件で議論が終結したとしても、その議論と平行して、或はイザヤ氏の回答待ち等で議論が停止状態にある時に、自論の補完をするかのような大幅かつ強引な編集を続行したり、或は別の新項目を立項する、といった議論の無視が非常に目立つ。そのため、却って議論が錯綜して他の議論を誘発させることが多い。また、イザヤ氏は、確認や回答待ちの最中にも拘らず議論から消えることもよくあり、質問にやっと答えたと思ったら、今度はその答えとは直接関係のない事柄ばかり論じ立てることが多い。本人にはその気はないようだが、読解力がないのか、質問と全く違う返答をして、場合によっては相手にははぐらかし(論点ずらし)と感じるような対応をする。そして、結果的に自説を蕩々とまくし立てているだけのことが非常に多い。必ずしも悪意があるわけではなく、理解力のなさが大きな原因であるのだろうと思うが、イザヤ氏には相手の言葉の細かいニュアンスを理解する能力がないように感じる。それが議論をややこしくしているのだろう。(その証拠のひとつとして、たとえば旧約聖書に関する記述でユダヤ教とキリスト教に関する記述が含まれていることと、進化論の記事に創造論の記述が長々と書かれていることを同一視するかのような短絡的な傾向が多々認められる。) 何れにせよ、イザヤ氏には議論で相手に折り合おうとする姿勢が全く見られず、いつ自己中心的に編集を強行しようとするのだが、このような行為は、たとえイザヤ氏に悪意はなくても、結果的に徒に議論を迷走させるだけでコミュニティーを疲弊させる問題行動だと言える。
- 例:「利用者‐会話:イザヤ#記事名に利用可能な文字範囲」 - 「ノート:ヘーレム#経緯確認」及び「ノート:聖絶でのお問い合わせ」その他無数
理解力の悪さからくると思われる議論の錯綜
編集上の問題とも関連するが、イザヤ氏には悪意はないのだろうが、議論においてはぐらかし(論点ずらし)とも取れる反応をしがちである。これは「極端とも言える理解力の悪さ」に由来するものと思われる。悪意はなくとも、これでは誰が・何をアドバイスしても無駄である。これほど理解力がないということは、あちこちで議論を誘発するのも当然で、共同作業を旨とする百科事典の執筆作業に性格的にもイザヤ氏が向かないことを意味していると思う。
- 例:「利用者‐会話:イザヤ#ご注意」 - 「利用者‐会話:イザヤ#ごアドバイス」
規則遵守主義
編集イザヤ氏はWikipediaの成文化された規則・ガイドラインを遵守する傾向が強く認められる。そのことは必ずしも問題とは言えないのだが、それが原理主義的とも言えるほどに偏っているため、規則の実際上の運用における解釈の余地を認めず、問題を起こすのだろう。Wikipediaの規則は解釈の余地があることが理解できないらしく、意見の対立を起こしやすいようだ。成文化された規則以外信じない人なのかも知れない。
スタブ量産
編集イザヤ氏が編集活動を始めたのは2010年7月27日で、新規項目を最初に作ったのも同日である。イザヤ氏がこのIDで登場してまだ8ヶ月ほどしか経っていないのにこの量である。その全てが問題だとまでは言わないが、スタブ量産には変わりなく、作っては放置している。気が付き次第、多くの編集者がタグを付けたりして尻ぬぐいをしているが、とても間に合う量ではない。また、削除や統合を主張でもしようものなら大騒ぎを初めて頑として譲らず、無駄な論争を起こす結果となる。このまま放置すれば、キリスト教関係用語がスタブの山になってしまう。
例を挙げれば、イザヤ氏はある記事を立項と同時にリダイレクト項目を幾つも立項するのだが、その行為そのものはまだ認められるものの、たとえば「ハイパー・カルヴィニズム」のリダイレクト項目(3件)や、「実存論的解釈」のリダイレクト項目(同)はやり過ぎと感じる。特に後者の「実存主義的解釈」や「実存的解釈」に至っては、これは哲学などでもよく扱われる概念であって、これを「実存論的な神学」の記事へのリダイレクトにすることは不適切である。大体、親項目も「実存論的解釈」ではなく、リダイレクト項目の「実存論的神学」の方が相応しい。
- 例:「ヨハネが受けたキリストの啓示」 - 「ヨハネによる福音書の資料」 - 一点一画その他無数
出典を見ないでの出典付きの記事の執筆
編集たくさんの出典付けた記事を書きながら、また、スタブ項目で非常にたくさんの出典を付しながら、どれだけその出典を自分の目で確認して記事を書いているのか疑わしい。「この本にこのことが書いてあるに違いない」という程度の予想だけで出典に挙げているのかも知れない。その可能性が非常に高い。
参考リンク
編集- 利用者‐会話:イザヤ
- プロジェクト‐ノート:キリスト教
- ノート:ヘーレム(旧・聖絶) - ノート:へーレム(“へ”が平仮名) - ノート:ヘレム(ユダヤ教の破門) - ノート:アナテマ - ノート:聖絶
- ノート:原理主義#改名、分割提案 - ノート:原理主義#神道項目の削除その他
--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
具体例
編集依頼者が関わった事例は「旧・聖絶」及びその関連項目なので、それを中心に例示する。(「聖絶」は合意が得られたので完全に過去の事例だが、ここと同じような事例がが各所で起こっているため、参考までになるべく詳しく取り上げることにする。なお、それ以外の項目は、依頼者とは別の人に加筆を依頼する予定。)
- 編集合戦の契機は、昨年秋に出典要請タグを付した記述をイザヤ氏がひと月足らずで一括で削除した行為に始まる(この編集)。削除の理由を尋ねても、「何年も前から出典すらない記述を削除しただけ」としか言わず、「なぜ私がタグをつけなかった記述を削除しなかったのか。タグを付いたのをよいことにしての削除ではないのか?」と尋ねても無視。その時は強く抗議したので暫く温和しくなったが、かなり意図的なものを感じた。要するに、自分の気に入らない記述の削除を、「Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に」における《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。》の文言を口実に削除したものと思われる。上で指摘したように、私が出典要請タグを付けなければイザヤ氏より何れ分割提案(による削除)が為されたものと思われる。
- その後の編集合戦に関しては、詳しくは「ノート:ヘーレム#議論の経緯について(by Bokemiann)」を参照のこと(なお、私のまとめでよいかとの別の編集者による再三の質問に対してイザヤ氏からは渋々ながらの同意が得られているが、その応答も「履歴を見れば分かる」と言うだけで、自説を蕩々とまくし立てるだけのものだった。⇒「ノート:ヘーレム#経緯確認」)。今回特に問題と思ったのは、私の最初に提案した統合案に対して、結論が出るまでは過剰は編集は控えるようにと「プロジェクト‐ノート:キリスト教」でもお願いしていたにも拘らず、件のノートページで私が仕事で一時ウィキブレイクする旨を書き込んだ翌朝、(別件で別の人と合意したことをもって)合意が為されたとして大幅改編を開始したことである。仕方なく編集保護依頼をして2週間ほどの編集保護となった。
- この時の編集において、今度はイザヤ氏が要出典タグをベタベタとこれ見よがしに貼り付ける行為に出たので、その行為について、「なぜ今になってやたらベタベタと出典要請タグを貼付したのか?」とゴチックで強調して度々質すも、肝腎の事柄には全く答えようとせず、ついでに尋ねた「聖書は出典にならないのか?」との部分にばかり反応して肝腎な答えが返ってこない。自分の気に入らない(聖絶は異民族の殺戮をも意味したとする聖書の)記述を後日削除するための複線ではないかと思わざるを得ない。
- これでは幾ら論議しても埒が開かないので、相手の要望をほぼ全面的に呑んだ「聖絶」の「ヘーレム」(ヘブライ語)への改名と、その後「聖絶」をイザヤ氏の意見に沿ったページにする案を提出するも、最終的には承認したものの、それでも文句があるらしく色々と言い立てて、すんなりと改名案を呑もうとしない。これに限らず、このように自説に固執し、どれだけ自分に有利な案が提出されても、イザヤ氏には自分から譲歩しようとする姿勢が全く見られない。なお、イザヤ氏の本件の編集は、「聖絶は元々福音派の聖書による翻訳語であり、この記事はその概念で述べるべきだ」との考えがあるからだろうと思うが、Wikipediaの「聖絶」は元々ヘブライ語の「ヘーレム」の解説ページとして立項当初から書かれてきた関係上、何の提案もなしの改編は認められない。しかも議論中の大幅編集である。
聖絶関連項目
- アナテマ(ギリシャ語形)
- 削除された記述を出典付きで復活させたところ、後日POVな編集をされる(これ)。これでは、一方の事典を出典とする記述が如何にも個人の見解でしかない、そんな印象操作を行なったかのような疑いを持たれても仕方がない。〔追記: 早速イザヤ氏より「ノート:アナテマ#レオン・デュフ-ルと新聖書辞典の相違」として返答があったが、この人はヘーレムの語義の変化をどうしても事典の編集者の個人的な見解にしたいらしい。ちなみに、「ヘーレム#語義の変化」では加えてマックス・ウェーバーを出典に挙げておいたので(アナテマにも転記済み)、カトリックの辞典編集者の個人的な見解とは言い張れないはず。なお、元々ここで指摘しているのは、「事典Aと事典Bを出典にした記事を、恰も事典Aだけその編者の個人的な見解であるかのような記述に書き直した編集を不適切で中立的でない」と指摘しているのだが、イザヤ氏はそんなことも理解できないようだ。一事が万事こんな調子なのだが、もしかするとイザヤ氏は事典の編纂者が全て筆を執ってその事典を執筆しているとでも思っているのかも知れない。--Bokemiann 2011年3月9日 (水) 12:52 (UTC)〕
- へーレム(ヘブライ語の原語:「へ」が平仮名)
- 議論の最中にも拘らず新ページを立てる行為はイザヤ氏の常套のようだ。この記事ではそれほどの逸脱は認められないが、ただ、聖絶で私の使った出典を確認もせずに利用したため、ちょっとトンチンカンな表現になっていたので(これ)若干の修正をしておいた。イザヤ氏にはこのように、自分で確認していない出典も含め、出典であれば何でもよいとばかり、よく確認もせずに出典明記してしまうところがあるように見受けられる。
- また、ひらがな「へーレム」を統合の議論をしている最中に議論を無視して勝手に立項しながら、「聖絶」の「ヘーレム」への改名後になっても、自分で責任を取って本項を削除依頼に出そうともしない。いつものことながら、全て他の編集者が尻ぬぐいをしなければならないことになる。余りに無責任すぎる。
- ヘレム(ユダヤ教による破門)
- 聖絶のヘーレムへの改名後、イザヤ氏による「聖絶」の執筆が始まるが、その直後に今度は「ヘレム」を新たに立項。削除するまでもないと思い直し、統合案(本当は削除が適当)を提出するも、イザヤ氏が猛反発。議論の詳細は「ノート:ヘレム」を参照。
- 「聖絶」による長期間に渡る工事中テンプレの使用
- 「ノート:ヘレム」にて私が強く言い、他の人が苦言した結果、工事中テンプレを貼って「聖絶」の編集に集中的に取りかかるが、いつまでたっても碌な加筆ができない。これをもっても、イザヤ氏の各所での発言が如何に当てにならないか、彼の実際の執筆が言うほどでないことを露呈していると思われる。従って、イザヤ氏が各所で主張している分割提案もそのまま真に受けることはできない。
- 「聖絶」の編集をイザヤ氏が集中的に進めるのに工事中テンプレを貼るのもよいと当初は思っていたが、履歴を確認したところ、工事中テンプレはイザヤ氏が聖絶の編集を開始した2月25日からのもので、期限を改訂するだけで工事中テンプレを今まで一度も外そうとしない。大体、工事中テンプレが編集競合を避ける目的で使用するもので、他者の編集を排除する目的で使用するものではないと言うことが分かっていないようだ。とりあえずテンプレは剥がしておいたが、このように編集競合を避ける目的で貼付されるテンプレを他の編集者を除外する目的で使用していることからも分かるように、イザヤ氏の編集姿勢が元々共同作業に向かないものであることは明らかである。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
「キリスト教根本主義」以外に「キリスト教原理主義」があるというのに、更に分割を主張。大半が反対する中、議論中案件の合意を見ずに、また、議論に返答することなく、「神道原理主義」(削除済み)を立項。また、「Category:キリスト教根本主義」より「宗教原理主義」の項目を勝手に削除。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
「ノート:カリスマ的支配」での分割提案
編集「カリスマ」の記事において、「社会学用語としてのカリスマ」よりウェーバーの「カリスマ的支配」を転記ないしは分割を主張、新たに「カリスマ的支配」を転記により立項。しかしながら、ウェーバーの学説の「支配の三類型」は愚か、「合法的支配」、「伝統的支配」は立項しようともしない。「これでは「カリスマ」からキリスト教以外の項目を除外しようとしていると勘ぐられても仕方がありませんよ」と苦言しても、理解できないのか、言いがかりに等しい返答(これ)をするだけで話にならない。悪意はなく、人の話が理解ができないだけにしても、厄介であることに変わりはない。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
ファリサイ派の編集に関するやりとり
編集「ファリサイ派」の記事において、削除された記事と要出典タグが付いた記事を出典付きで復活させたところ(この編集)、イザヤ氏が自分のノートページで、《批評的な聖書学の説のみで「新約聖書」の節を埋めるような編集をする編集者もいらっしゃいます。・・・批評的な説で項目を埋めることが中立的な記述ですか。私は他の教派のことも考えながら作成してきました。》(これ2)などと発言。とりあえず反論しておいたが(これ])、Wikipediaがどういうところなのかの基本も理解できていないらしく、「聖書学に詳しいのは分かったが、それならカトリックや正教の聖書学の研究にも目を通したのか?」(こちら)などとイザヤ氏より反論。仕方がないので再度反論しておいたが(こちら2)、イザヤ氏のPOVという発言を捉えて分かりやすく説明しているのに、その比喩が理解できないのか、今度は《ウィキペディアではPOVが推奨されているという主張があるようですが》(これ)などと言い出す始末。どうやらこの人は、自分以外の編集者が自分の強い分野の知識を下に記事を執筆すること、自分がアクセスできる出典だけを下にして記事を執筆することをPOVと捉えているらしく、また、自分の気に入らない立場の記述は全て彼にとってPOVになるようだ。そして、自分の気に入らない立場の記述に対して非難ばかり繰り返し、その記述を分割の形などで排除しようとするのだが、それが結果的にスタブ量産に繋がるのであろう。
そんな訳で、イザヤ氏には「お互いに強い分野を共同で執筆することで記事を成長させよう」というWikipediaのプロジェクトの理念がまるで理解できていないようだ。理想は一人でNPOVが実現できればそれに越したことはないが、現実にはそれは不可能だ。私は「自分の信じる立場と違う見解でも排除しない」という姿勢だけでもWikipedia上のNPOVはある程度実現できると思っているが、彼にはそのような考えはないのだろう。或は全部自分一人でやろうと思っているのかも知れない。何れにせよ、自分の信仰上の立場と違う記述を記事の分割をもって除外しようとしているイザヤ氏の方が、誰よりも余程POVな編集者だと言わざるを得ない。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
出典を見ないでの記事作成事例
編集- 「ファリサイ派」での編集
- ウェーバーの『古代ユダヤ教』を出典とする記事がイザヤ氏によって書かれたので、岩波文庫に附録された論文「パリサイ人」の方ではないかと問い合わせたところ(ノート:ファリサイ派#「マックス・ウェーバーの説」の出典について)、確認をすると言って記事を削除(これ)、今に至るまで放置。
- ヘーレムにおける出典
- 泉田昭『日本における聖書とその翻訳』と鈴木範久『聖書の日本語』に直接的な記述が見られない。前者はそれでも許せる範囲だったので注記にコメントを付加したが、後者に関しては、確認の上、全く関連する記述がないことが判明したので削除。
- その他、下記で示す量産しているスタブ項目においても、外国語文献も含め、数行の記述に多くの出典が注記されているが、実際に見て書いているとは思えない。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
その他の事例
編集- 不適切な出典による記事の加筆
- たとえば「福音派#エキュメニカル派との関係」の編集(こちら)に見られるような、前半はまあよいとしても、後半の「死者の霊を呼び出した」とかいう如何にもゴシップ記事のような内容を百科事典で殊更に書く必要はない。他の立場の加筆に対してはPOVだの何だのと大騒ぎをするのに、福音派の記述に関してはこんなレベルの加筆を平然と行なう。
- 「ヨハネの黙示録」が既にあるというのに、何故こんな記事を立項するのか理解に苦しむ。尾山令仁訳『現代訳聖書』での訳題だと言うが、他の章(訳題)には赤リンクすら設定されていない。「ヨハネの黙示録」の記述が聖書学寄りなのが気に入らなくて、このような挙に出たのだろうとしか想像できない。
- こちらも、事前の提案もなく、正規の分割の手続きを経ずに、かなりな記述が勝手に分記されているが(これ→こちら)、やはり上記と同様の理由から、気に入らない記述を「ヨハネの黙示録」から排除することが目的だったのだろうと思わざるを得ない。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
スタブ量産
編集リストアップは、漏れ落ちはあるかも知れないが記事を中心とし、それ以外のリダイレクト項目等に関しては幾つか省いた。また、今回のリストはあくまで新規立項に限り、それ以外の問題編集に関しては、一部を除き(私が全てを把握していないこともあり)省いた。
新規立項項目(スタブ)
編集一点一画(2010年7月27日 (火) 13:00) - EASEUS Partition Master(2010年7月27日 (火) 16:27) - 鳩の糞(2010年9月3日 (金) 21:53) - 花嫁料(2010年9月7日 (火) 18:30) - 聖書の霊感と権威( 2010年9月9日 (木) 08:34) - おお永遠、そは雷のことば( 2010年9月19日 (日) 00:27) - 聖書の権威に関する宣言(2010年9月30日 (木) 23:40) - 聖書の現象(2010年10月16日 (土) 02:21) - 第3回ローザンヌ世界宣教会議(2010年10月19日 (火) 00:41) - 婦人の異常な執政に反対する第一声(2010年10月19日 (火) 06:10) - 世界伝道会議( 2010年10月24日 (日) 07:13) - 宣言若しくは信条( 2010年10月25日 (月) 03:01) - インターナショナル・チャペル・ミニストリーズ( 2010年10月30日 (土) 19:47) - エペソの祭典(2010年10月31日 (日) 05:30) - ロバート・チャールズ・スプロール( 2010年11月2日 (火) 04:56) - 伝道説教(2010年11月10日 (水) 06:09) - サンデマン主義)(2010年11月25日 (木) 06:28) - 聖書のみ( 2010年11月30日 (火) 02:05) - 特別恩寵( 2010年12月1日 (水) 02:10) - 信仰後退者( 2010年12月2日 (木) 23:14) - 簡易信条主義(2010年12月3日 (金) 06:40) - 現改訳聖書( 2010年12月5日 (日) 06:20) - リベラル・カトリック教会(2010年12月7日 (火) 02:15) - 霊の戦いに関する聖書的・包括的理解のためのナイロビ声明(2010年12月10日 (金) 01:56) - ジェフリー・バートン・ラッセル( 2010年12月10日 (金) 05:29) - 見よ、主は輝く雲にうち乗り(2010年12月12日 (日) 01:40) - 自筆譜( 2010年12月13日 (月) 01:43) - キリスト教大事典(2010年12月16日 (木) 06:04) - 日本基督教団全国連合長老会(2010年12月18日 (土) 21:12) - 三自愛国教会( 2010年12月19日 (日) 21:42) - 直接啓示(2010年12月20日 (月) 01:15) - ダビデの村に(2010年12月24日 (金) 03:14) - 悪霊追い出し( 2010年12月28日 (火) 02:29) - 外典福音書(2010年12月31日 (金) 01:12) - カリスマ条項( 2010年12月31日 (金) 06:26) - 北のはてなるこおりの山( 2011年1月1日 (土) 02:42) - 第3回ローザンヌ世界宣教会議(2010年10月19日 (火) 00:41) - エクソシスム( 2011年1月6日 (木) 12:39) - 私審判(2011年1月6日 (木) 23:26) - 比較宗教学( 2011年1月10日 (月) 00:35) - 偶像破壊(2011年1月20日 (木) 02:59) - キリスト・イエス(2011年1月22日 (土) 12:04) - 平仮名へーレム(2011年1月23日 (日) 22:50) - ヨッド (ヘブライ文字)(2011年1月24日 (月) 01:46) - 神道大辞典(2011年2月2日 (水) 22:32) - キリスト教文書(2011年1月31日 (月) 12:25) - 悪霊につかれた人(2011年2月1日 (火) 03:56) - カトリック教会のエクソシスム(2011年2月1日 (火) 07:43) - 国際エクソシスト協会(2011年2月1日 (火) 07:48) - 悪霊につかれて口のきけない人をキリストがいやす(2011年2月1日 (火) 18:26) - ヨハネによる福音書の資料(2011年2月5日 (土) 11:05) - 神道原理主義(2011年2月10日 (木) 12:12) - 日本教(2011年2月11日 (金) 10:46) - カリスマ的支配(2011年2月22日 (火) 21:54) - [[]]() -
リダイレクト項目
編集新規立項と同時にリダイレクトページを作成した項目:
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曖昧さ回避:
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カテゴリ項目
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Category:架空のエクソシスト(2011年1月8日 (土) 12:01 ) --ジャムリン 2011年5月5日 (木) 10:55 (UTC)
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その他
編集--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:06 (UTC)
現時点での感想
編集イザヤさんのコメント
編集経緯
編集発端となった出典のない独自研究
編集Bokemiann氏との議論がはじまった発端である、出典の無い独自研究についてまず説明します。[1] は旧約と新約の経綸という基本的、基礎的な神学ではなく、契約神学という年代も異なり、明らかに神学的に間違った記述が出典も無く、載っていました。しかも出典を要求するタグがついてから一か月も経っており、記述がなされてからは、さらに時間が経っておりました。しかし、Bokemian氏はこの出典のない記述を残すことを強硬に主張されたので、出典が無い項目は除去されてもやむを得ないというウィキペディアの公式方針を提示したところ、それでも納得がいかなかったようで、井戸端で皆さんから教えていただいたようです。
神学および教派の説明
編集私はBokemiann氏に対し、キリスト教神学と教派について説明しました。私のその説明はノート:ヘーレムにあります。KInno Angel氏を交えた話し合いの結果、キリスト教の聖絶と「ユダヤ教とキリスト教に共通の項目」であるヘーレムを分けて書くことで合意が成立しております。しかしながら、Sillago氏とヘブライ語ユーザー氏はこの説明を全く無視して、出典とも合意とも反する統合を主張しています。主張するなら、神学的な問題について回答をよこしてからにするべきですが、ヘブライ語ユーザー氏は神学については知らないそうで、この議論について全く回答すらしていません。
Bokemiann氏とSillago氏の計画
編集Bokemiann氏とSillago氏は「共同作業」を行います。このコメント依頼に至る計画です。 [2]Bokemiann氏がSillago氏に送ったメールは、「彼には先に私がSillagoさん宛のメールで書いた障害があるようです。ここ数日で確信に変わりつつありますが、ここまで理解力がない、逸脱してしまうのも、彼がその障害を抱えているからこそでしょう。」と人を精神障害者呼ばわりするもので、彼らはここで、コメント依頼をだす方策について話しあっています。
Bokemiann氏は、[3]では、「甘やかされて育った」と、知りもしない親の教育方針について中傷しています。人の親に対する中傷です。また、Bokemiann氏は、ここで[4]、Sillago氏にコメント依頼の意図について説明し、「今回のことで、10人くらいから賛否がもらえて自分の意見が入れられない経験をして、自分の思い通りにならない、しようとしてはいけないことを学んでくれればよい」と、コメント依頼で数の力で思い知らせようとうする考えを表明しています。
ヘブライ語ユーザー
編集私はユダヤ教とキリスト教の複雑な関係を知っているために、ユダヤ教とキリスト教が関わる記事については慎重でした。
ここでイエス・キリストを冒涜するユーザー名を名乗るヘブライ語ユーザーがあらわれます。
この語についてはネットの簡単な資料ですが、こちらでどのような意味か判断できるはずです。宗教グループにねらわれた兵士たち「イェシュ(訳注:ユダヤ教でのイエスの軽蔑した呼び方)の伝道者と悪魔に従う人にはほとんど違いがない。」、「ユダヤ人はイエス様についてほんの少しの知識もない。」と話しておられました。ヘブル語でイエスはイェシュアですが、それさえも知らず罵る言葉「イエシュ」しか知らないそうです。【ハーベストメールマガジン】2005/10/15(土)「法王の訪問に先だって、イスラエル人の日刊紙が、約1週間にわたって「教育的な解説記事」を連載した。それは、イスラエル人たちがあまりにもキリスト教に無知だからである。その連載記事では、キリスト教とは何か、何を信じているのか、法王とは誰か、なぜイスラエルを訪問するのかといった内容が取り扱われた。当然、イエス・キリストとは誰か、という内容も出てきた。伝統的にユダヤ人たちは、イエスのことを、「イェシュ」と呼んできた。これは、軽蔑の意味をこめた呼称である。しかし、その時の記事では、メシアニック・ジューたちが使っている、「イェシュア」という呼称が用いられた。これだけでも、大きな進歩であった。」「タルムードの中のイエス」試訳によれば「タルムードはイエスの名前を、イェシュアから「イェシュ」に縮め、その意味を主は救いから「彼の名は消し去られるように」という言葉の頭文字へ変えてしまっています。」
彼は、「Wikipedia:コメント依頼/イザヤが空振りに終わっているので今回は気合を入れていきましょう。--ימח שמו וזכרו 2011年4月23日 (土) 06:18 (UTC)」[5]と発言していますが、コメント依頼の誤用です。自分に対するコメント依頼を、「空振りに終わった」Wikipedia:コメント依頼/イザヤの代用に、「今回は気合を入れて」行くのだそうです。Bokemiann氏がおもな執筆者であるヘブライ語記事ヘーレムについての議論なのだから、これについてのコメント依頼であれば、記事のコメント依頼から出すのが、スジのはずです。しかし、このヘブライ語ユーザーは、2011年4月23日 (土) 05:51に「どちらが善で、どちらが悪なのかをはっきりと断じていただきたく存じております。玉虫色の決着は望みません。どちらとも悪でも結構です。そして、悪と断じられた利用者に対しては無期限のブロックを科してほしいのです」などと言っています。ウィキペディアのコメント依頼は「どちらが善で、どちらが悪なのかをはっきりと断じていただく」場なのでしょうか。
[6]で、ヘブライ語ユーザー氏は中傷で注意を受けており、また、私の説明も評価されています。
Bokemiann氏のヘブライ語ユーザー氏との議論における最後のコメントは[[7]]ですが、「ימח שמו וזכרוさんとはどうも対話にならないようです。淡々と作業だけしていればよいかと思いましたが、無理なようです。本来は今週早々作業に入れるかと思っていたのですが、こんなやりとりを続けている限り、また直ぐに月末になってしまいます。私も仕事がありますから、その期間はウィキブレイクをしなければなりませんが、そんな個人の事情も理解できず、対話拒否だの何だのと個人のノートで延々と個人攻撃をしてくるような方とやりとりをして記事を作ってゆくような余裕は私にはありません。」と言っておられます。Bokemiann氏のこの発言は、賛同とは言えませんが、ヘブライ語ユーザー氏とSillago氏はこれが、「賛同」、「合意」であると主張して、編集を強行しました。
私にはむしろBokemiann氏が気の毒に思えます。ヘブライ語ユーザー氏はBokemiann氏が「個人攻撃」と受け取るだけのことをしているのに、Sillago氏は何のフォローもしていません。今まで協力してきたのではなかったのですか。
Sillago氏
編集Sillago氏は親切めかして書かない方が「あなたのためだ」と言いました。私の先生、あるいは親しい友人であれば、何かをすること、しないことが「あなたのためだ」という忠告はうれしいと思います。しかし、Sillago氏のように親しくもなんともない人物が、私の執筆を全否定し、いない方が「あなたのためだ」などと言われた時、それでも私は丁寧に応答したのです。彼に対して怒っても不思議ではない場面です。Sillago氏は私の書いた記事を「腐れ記事」、私のことを「卑怯な人」と呼んでいるように、暴言も平気で言い放つという、私が普段話す福音的クリスチャンの兄弟姉妹の間では見られないような、またウィキペディア的ではない特殊な言語感覚を持っており、以前にも暴言でブロックされた経歴のある人物です。
Sillago氏はここで、[8]「イザヤさんはここまでしない人ですが、私は可能な限り調べます。後は図書館が開くのを待つばかりです。」などと言っています。Sillago氏は何年も神学を学んで来た私が調べもせずに書いていると中傷したあげく、「私は可能な限り調べる」などと決めつけを行なっています。このような中傷をする権利はSillago氏にありません。
Sillago氏による反社会的との批判について
編集ヘブライ語ユーザー氏らが主張する、ヨシュア記の時代に行われた宗教的迫害、虐殺、という観点であれば、古くはヴォルテールの『キリスト教の検討』という反キリスト教的な本の「ユダヤ人の風習について」でヨシュア記のユダヤ人たちを非難するものがあります。ヴォルテールは「人殺しどもの軍隊」、「もしこの物語の作者がユダヤ人を他の諸民族にとってにくむべきものたらしめようと意図したのであったなら、こうする以外にあっただろうか?」 というのです。リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』にも同様の指摘があります。心理学の祖ともいうべきユダヤ人ジークムント・フロイトの『モーセと一神教』にもユダヤ民族のヨシュア記の出来事について、「粗野で傲慢な一地方神、暴力を好み、血に飢えたもの」が皆殺しを命じたとする記述があります。キリストの無いヨシュア記のヘーレム、聖戦については、現代イスラエル国家のパレスチナ問題との関連が指摘されています。『ユダヤ国家とアラブゲリラ』という本にテルアビブ大学のタマーリン博士による研究が載っています。「聖書のヒーローによる大虐殺の勉強などについて。これらはいつも明らかに否定的なものでさえ、ユダヤ民族の英雄的行為とみなされて教育されている」として、「聖書に出ている物語の中で、ユダヤ民族がパレスチナに侵入し、土着民族の大量虐殺を行なった話を生徒に読ませた。」 タマーリン博士によれば「ヨシュアの物語がイスラエルの教育システムの中で特別な位置を占めていることから、われわれはこの例を選んだのである。」とあります。ヘブライ語聖書を虐殺の書、宗教的迫害ととらえる立場からの恐ろしいテロ事件も起こっています。バールーフ・ゴールドシュテインによるマクペラの洞窟虐殺事件がそれです。このユダヤ人はパレスチナ人を虐殺するテロ事件の前に、ヘブライ語聖書のユダヤ人による「虐殺」の箇所を読み聞かせたそうです。
クリスチャンの間では、間違った聖書解釈は危険であるというのは常識です。
キリスト教の聖書解釈
編集キリスト教にとって、旧新約聖書は誤りない神のことばであり、この書はイエス・キリストの十字架の救いの道を示し、神の愛を示すものです。クリスチャンはこの書を読み、祈り、神を讃美します。そのための書です。上記のような奇怪な聖書解釈はキリスト教では出てきません。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハのカンタータにキリストは死の縄目につながれたりがあります。ここで真の過越しの子羊と呼ばれ、讃美されているのはイエス・キリストです。かもいに塗られた血とは、イエス・キリストの血です。そして、こことつながる聖書箇所は聖絶から救われたラハブです。ラハブの赤いヒモがキリストの血なのです。
この箇所を非キリスト教的立場から、「聖書の残虐記事」のように見る者がいるようです。しかし、そのような非キリスト教的な解釈では、バッハの素晴らしいカンタータも、クリスチャンの祈りもないのです。聖書は信仰の書、祈りの書です。キリスト教の聖書解釈はオウム真理教のポアではありません。
キリスト教プロジェクト
編集キリスト教プロジェクトの主筆者の一人、Kinno Angel氏とは、いろいろな所で議論しております。彼は私について言いたいことはいくらでもあると思います。それでも、Kinno Angel氏の意見には参考になることが多々あり、執筆者としてKinno Angel氏に敬意を払っております。彼は私の意見に賛成することもあれば、反対することもあります。Kinno Angel氏は私の執筆や意見を全否定することはありませんでした。しかし、Sillago氏やジャムリン氏は、私の提案には必ず反対するという不思議な行動をとります。ジャムリン氏にこの不思議な行動について尋ねた所、彼はここでこのように述べています([9])。ジャムリン氏はキリスト教プロジェクトに思うところがあるようです。自分の関心、知識の無い分野に踏み込んできて、すべての意見に反対するとは、それこそ対話拒否の一形態ではないでしょうか。
教派間の調整の必要と、他の宗教との関係がある記事
編集キリスト教プロジェクトでは、キリスト教内部でも教派別のキリスト教用語一覧や、[[10]]、[[11]]、ノート:告解をご覧いただければ分かるように、同じヘブライ語や、ギリシャ語、ラテン語をもととした語でも、キリスト教内部の教派、教会でさえ、教派ごとに項目を分けて書かなければなりません。教派ごとに分けて執筆すること、自称尊重の必要については、キリスト教の神学、教派について知識のある者であれば、誰でも理解しています。しかし、Bokemiann氏、ヘブライ語ユーザー氏、Sillago氏、ジャムリン氏に共通の特徴として、キリスト教プロジェクトで話し合って来たことを全く尊重せず、教派どころか、キリスト教と異なる宗教をむやみに統合しようとします。キリスト教は教派でも分けて書かなければならず、調整に話し合いをしているのです。そうであるのに、キリスト教と異なる宗教をむやみに統合しようとすることは、ウィキペディアのキリスト教関連項目に対してあまりにも無理解と言うしかありません。
サン・ジョルディの日
編集ノート:サン・ジョルディの日の議論を御覧ください。もとの意味と、各国によって意味が変わったものは、それぞれ分割されています。ギリシャ語によるもとの人名は多言語にリンクし、各国における祭りについては、それぞれに国ごとに分けられています。
もとの語は多言語にリンクし、概念ごと、国ごとにわけるのは、サン・ジョルディの日にみられるように、自然な解決方法です。 上記であげられてる議論のいくつかは、サン・ジョルディの日の模範にならったものです。
ユーザー名
編集アイザック・ニュートン、イツァーク・パールマンはどちらも聖書のイサクから取られた名前であり、聖書の登場人物の人名を名乗る事は珍しくもありません。ごく普通の事です。クリスチャンホームの子供には漢字で伊作のように名づけることもあり、日本語にも自然になじみます。しかし、日本で子供を「悪魔君」と届けたものが問題になったように、キリストを呪詛するために用いられてきた罵倒句を人名とすることは、どの世界でも決して一般的ではありません。また、当然ながら、ウィキペディアの方針に反します。
執筆活動
編集私の以前の執筆活動については、そこに新規作成したものだけがリストされていますが、このほかに編集したものも多いですし、キリスト教の新着も見ていました。またキリスト教プロジェクトでKinno Angel氏と対話する必要が多くありました。
私が戻ってきたのにも関わらずコメント依頼やノートの議論に出てこないのは、対話拒否だというご指摘がありましたが、現状を見てください。以前の活動から見てとても「戻ってきた」というレベルではないのがお分かりのはずです。これはウィキブレイクとは呼びませんか。
疲労困憊して肉体的、精神的に限界を覚えている時でも、パソコンと携帯メールだけは打てる時があります。それほどパソコンやケータイは身近にあるものです。これは私だけでしょうか。
それほど慣れているといっても、以前のように長時間、毎日のようにウィキペディアに関わるのは不可能な、物理的、精神的な状況です。個人の事情であり、他人のプライバシーの問題に関わる可能性もある、いまの具体的状態について、詳しく話すことは出来ません。話さない方が正しい事もあります。
ただ、ノートでの会話についてお答えしていないものがあり、「逃亡した」という指摘もあるので弁明いたします。いまウィキペディアにさける時間は多くありません。各ノートで議論となった項目については資料をいくつも集めてあり、決して対話を投げ出したつもりはありませんが、現状ではそのすべてにお答えすることは、体を何体も持っているのでない限り、不可能です。ただし、Bokemiann氏との今回の議論の発端となった聖絶記事関連と、Sillago氏が「腐れ記事」と評価したもの、More blessingさんから執筆依頼のあったもの、そしてこのコメント依頼についてのみ、一週間に一度程度、確認に来たいと考えておりますが、それさえ、出来るとお約束できるものではありません。こちらの制約のためです。自戒を込めて言いますが、ウィキペディアンも生身の人間です。
もし、私が本格的にウィキペディアに復帰することが出来たならば、ノートでの対話が必要な項目について、また、私との対話が必要なウィキペディアンがいらしたら、私をお呼びください。優先的に伺わせていただきます。礼を尽くし、時間をかけて、丁寧に対話して行きたいと願っております。
また、私が執筆する領域はキリスト教関係にほぼ限定されているので、キリスト教項目のおもな執筆者であり、私の執筆分野について知識のあるMore blessing氏らと、対話、協力関係をさら深めていく必要があると考えています。以前からキリスト教プロジェクトでは、協力関係も対話もありましたが、それが不十分であったことを思い、反省しております。--イザヤ 2011年4月27日 (水) 17:04 (UTC)
第三者によるコメント
編集イザヤさんの編集姿勢について思うこと。
- 他者のとの協調性の欠如:Wikipediaは今更言うまでもなくいろいろな方との共同作業の場です。イザヤさんは好き勝手に記事を作り「ルールに則っているのだから何が悪い?」と開き直っています。
- 脱法行為ともとれる編集姿勢:上でも述べましたが「ウィキペディアの公式方針ではないから守る必要はない」などと自らを正当化しています。多くの方がイザヤさんのこれまでの行為を問題視しているにもかかわらず、です。出典を沢山出しているのだからいいだろうと言います。これを私は「脱法行為」ととらえます。そこには他者との軋轢を生まないような配慮がありません。
- Wikipedia目的外使用:イザヤさんがキリスト教に対して何かしらの強い思いがあることは明白ですが、その目的のために記事編集を行っているとしか思えません。ここは百科事典サイトです。ちなみに旧約聖書には「イザヤ」という預言者がいます。私には彼の行為が、イザヤという名をかたってキリスト教をおとしめているとのではないかとも思えてなりません。それくらい彼が反社会的に見えるからです。仮に彼が敬虔なキリスト教徒だとして、少なくともウィキペディアで行っている行為はそれと正反対です。
- あまりに低品質な記事:イザヤさんが作成した悪霊につかれて口のきけない人をキリストがいやすを私は「本文よりも出典の文字数が多い腐れ記事」と言いました。誰も反論しませんでした。彼はこのようなどうしようもない記事をわんさか作成し続けています。いい加減やめて欲しいです。
- 議論の軽視:彼は議論に参加はします。しかし踏み込んで合意に至ろうとはしません。その前に新しい腐れ記事を作成するのです。それが続くので議論は拡散します。対話らしい対話ができていません。
以上を鑑みるに、イザヤさんはウィキペディアにおける、共同で記事編纂を行うという作業は全く向いていないと考えます。イザヤさんにおかれましてはウィキペディアのことをすぱっと忘れて編集をやめていただくことを強くおすすめいたします。正直、イザヤさんのために莫大なエネルギーが消費されるのです。--Sillago 2011年3月9日 (水) 15:55 (UTC)
- コメント 折角のコメントに水を差すようで申し訳ありませんが、「腐れ記事」云々は不穏当な表現だと思いますので、できればもう少し適切な表現に改めて下さるとありがたいです。さて、おっしゃることはその通りだと私も思いますが、ただ少し解釈が違います。強いて善意に取っているわけではないのですが、イザヤさんの一連の行動にはいささかの悪意もないと思っています。彼なりに一生懸命にやっての結果がこれなのです。もちろん百科事典執筆プロジェクトとしては逸脱なのですが、彼には何が問題なのかが理解できていないのでしょう。また、「ルールに則っているのだから何が悪い?」「ウィキペディアの公式方針ではないから守る必要はない」などといった言動にしても、彼はこれを「脱法行為」とは意識していないと思います。私は上で書いたようにイザヤさんは規則遵守主義者だと見ていますが、それでも逸脱してしまうのは、その規則遵守が原理主義的とも言えるほどに極端だからです(彼の会話ページを見れば分かると思いますが、イザヤさんは規則の運用に当たって解釈の余地というものを認めることができないようです)。そして、規則に名文化されていない事柄は、「守る必要がない」のではなく、多分存在すらしていないのでしょう。今までのやりとりを見てきて思うのですが、イザヤさんは「言外の理」というものが理解できない人なのだろうと思います。そういった意味でWikipediaの規則やガイドライン、草案として明文化されていないものは、存在しないに等しいので、彼に理解しろということが土台無理なのではないかと思います(たとえばその一例として、彼の会話ページにて「スピード違反の論理」として注意された彼が、「世俗法のたとえを持って来た人がいましたが、道交法に明記されたスピードについての規定とは異なります」などと発言していましたが、これなどはよくそれを表わしていると思います)。なお、本文より出典の多い記事については、上でも指摘した理由から、実際に出典を確認しないで書いている可能性が非常に高いです。これだけでも大変な逸脱行為です。
- なお、うまくは書けなかったのですが、イザヤさんがこれほどまで理解力がないということは、これは通常の人では考えられないレベルです。このような逸脱をイザヤさんが今後も行ない続けることが予想される以上、このまま彼を放置すれば、キリスト教項目は2年もすればスタブの山になって、結果的にPOVな記事だらけになってしまうでしょう。上記で書いた通り、彼とは基本的に対話は不可能です。これ以上個別のノートページでやりとりしても時間の無駄、私たち編集者のリソースがイタズラに奪われるだけです。よって私の結論も、Wikipediaを逸脱編集者から守るためには、「イザヤさんにはWikipediaから出て行ってもらうしかない」ということになります。--Bokemiann 2011年3月10日 (木) 13:59 (UTC)
- 「腐れ記事」について。本当にそう思いましたから書いたので、訂正するつもりはありません。広辞苑によると「腐れ」とは名詞としては「いやな感じを与えること。うんざりすること」であり、接頭辞としては「ののしる意を表す語」だそうで。まあののしると言うよりは前者の意味で使いました。ついでに言うと、出典を沢山つけると立派な記事になるとイザヤさんは錯覚しているようですが、出典の適切な使い方を全くはき違えているようです。そういう意味でも腐れ記事です。ただ、出典水増しした「腐れ記事」を10本作るより、文句の言いようのない充実した記事を1本作成して欲しいのです。それができるのであれば。それと前言と矛盾するようですが、障害うんぬん(しかも憶測)というセンシティブなことは言わない方がよいと思います。障害を持っていても立派に活動してる方は沢山います。ここで問われるのはあくまで編集方針なのです。彼はここでの意見をどうとるか。感じるものあって改善に向けて動くか。馬耳東風か。今後はそれにかかっています。--Sillago 2011年3月10日 (木) 14:37 (UTC)
コメント 依頼者さんとは複雑な関係にあったことからここでのコメントは控えていたのですが、事態が急展開しつつあるのでわたしもコメントを残しておきます。イザヤさんについて、投稿ブロック依頼を提出して審議してもらう方針に賛成いたします。--ימח שמו וזכרו 2011年5月5日 (木) 06:29 (UTC)
- コメント 大方は他の方が既に指摘されていることになります。被依頼者は熱心な編集者であると思いますが、キリスト教関係、ことに福音派のスタンスにこだわるあまりの頑迷且つ排他的且つ散漫な編集が多く、結果、編集だけでなく記事の立項や議論まで必要以上に散逸されていく傾向が顕著です。私が初めてイザヤさんとノートにて議論となった「悪魔払い」でも議論途中で他からの疑問や意見や諌めがあったにも関わらず「誰に何を言われようと別にキリスト教特化項目を作るつもりでいる」(エクソシスム、カトリック教会のエクソシスム、悪霊追い出し)という、およそ何のために自ら呼びかけて議論を始めたのか判らない駄々まで捏ね始め、その通りに実行してしまいました。また議論途中に、ご自身の主張に添った展開にでも持っていくおつもりなのか、未熟な内容の記事を次から次へと立項したまま放置し、削除依頼や改名や移動・統合提案がでることになってもコメントひとつ寄せてこようとはせず、後処理についても他の方にまかせっきりで、謝辞や労いもなく知らん振りです(神道原理主義、悪魔拂、ヨッド (ヘブライ文字))。
- 新記事の立ち上げにおいても、本来は辞書的な単語を立ち上げ、しかも語源とは違うキリスト教の一部から見たことしか加えず、結果調べものの役に立たない内容のままにしてしまうこともしばしばで、「義戦」を正戦論のリダイレクトにしたときなどは、本当にキリスト教以外の一般的な知識すらないのか、それとも故意に無視しているのかと、どちらにしろ呆れました。
- また、その排他的思考からなのか、被依頼者の作成する記事に良くみられるところの要領を得ない判りずらい編集のような理解力及び、構成力のゆえなのか、他から意見や対論を曲解することが多く、あまつさえ意見の発言者まで錯誤して、管理者の方に訴え行く有様で、そのことに対する謝罪や訂正すらありません。
- 今のままでの編集態度では、おおよそ他と協同作業にて記事を作っていくというwikipediaの方針には、ほど遠いものと思われます。--ジャムリン 2011年5月5日 (木) 10:34 (UTC)
震災対応につきコメント依頼の凍結を提案します
編集当事者であるイザヤさんが震災対応のためウィキブレイクに入られました。状況は分かりませんが被災されていた場合、お見舞い申し上げます。つきましてはこういった非常事態につき、イザヤさんが復帰されるまで無期限でこのコメントを凍結したいと思いますがいかがでしょうか。失効してしまうならそれでもかまわないと思っています。いかがでしょうか。--Sillago 2011年3月21日 (月) 15:43 (UTC)
- 凍結には反対です。ウィキブレイクといっても人によっては数日で復帰する場合も多々あります。ブレイクしたといってもイザヤさんご自身の編集について何ら反省や確認の類をしてからのブレイクでもありませんし、失効してから以前のとおりの編集を続けられたり、別アカウントやIPユーザーとして活動された場合、他の方々ともども、また同じ労力で振り回されるのは勘弁して欲しいところです。凍結よりは、ブレイク後編集復帰しないでいる期間については対話拒否と見做さないというコンセンサスの上、問題点の洗い出しという意味で続けた方がいいと思います。このまま凍結していた方がイザヤさんの意図に適う議論案件の対処のこともあります。--ジャムリン 2011年3月22日 (火) 15:16 (UTC)
- そうですか。凍結提案をした理由は二つあります。一つは、こうした非常時の中で、被災当事者、あるいは被災地のために尽力しているであろうイザヤさん抜きで議論を進めることがフェアではないと感じたこと。私は被災者ではありませんが、それでも自宅が被害を受け、また様々な理由で一時的にひどい心労を受け、立ち直った後は支援活動などでウィキブレイクせざるを得なくなりました。「震災対応」というのが人ごととは思えないのです。もう一つの理由は今イザヤさんは活動していません。活動していない方のコメントを募ることに意味を見いだせないのです。活動再開してからで良いではありませんか。と、思いましたが適切な処置がなされるならばそれに従います。ただ当事者不在のまま一方的にコメントが進むことがよいことだとは思えません。--Sillago 2011年3月23日 (水) 14:25 (UTC)
- コメント 私も本件は何れ時を見て取り下げるのがよいだろうとは思っていましたが、まだ早いだろうと思います。Sillagoさんのご意見はよく分かるのですが、殆ど誰もコメントしていないのですし、イザヤさん抜きでの欠席裁判の懸念は必要ないでしょう。非常事態だから仕方がないですが、現在は開店休業に等しい状態なわけですから、凍結しているのと同じ状態です。それに、イザヤさんの今までの行動を鑑みれば、そこまで配慮しなくてもよいと思うのです。却って今まで色々と配慮してきた結果がこれなのですから、ある程度厳しくあるのは仕方がないことだと思います。
- それと、私はジャムリンさんと同様の懸念を抱いています。イザヤさんが普通に復活して活動を再開されればよいですが、誰かに入れ知恵されて別垢で復帰された場合、ある程度様子を見ないとコメント依頼もできないわけですから、同じことの繰り返しで、大変な目に遭うのは目に見えています。なので、余り悪意には取りたくないのですが、開店休業状態ながら、本件を軽々に取り下げないことで、「ほとぼりは直ぐには冷めないよ」というメッセージだけでも伝え続ける必要もあるのではないかと思うのです。もっともコメント依頼をいったん取り下げるのは悪いことではないと思っています。本件が余りにも長文なので、読んだ人を引かせてしまうかも知れませんし、その意味で過去ログ化した本件にリンクを貼って再度コメント依頼するのはよい方法だと思います。でも、それもこれもイザヤさんが復活して今まで同様の活動をされることが前提です。そうでないと本件は無駄になってしまいます。本件を取り下げるとしても、少なくとも来月以降でしょう。少なくとも今はまだ時期尚早だと思います。--Bokemiann 2011年3月23日 (水) 15:41 (UTC)
本当に“震災対策”とやらなのか疑問です。何を書こうが真実性は一切担保されないのがウィキペディアの欠点ですからね。どのように悪意を持って受け取ってもそれは本人の自由。--219.111.117.84 2011年4月23日 (土) 03:02 (UTC)
利用者‐会話:イザヤ#警告、及び当人の投稿記録を見て下さい。復帰してます。結局、逃げたに過ぎなかった事が証明されました。--113.197.140.47 2011年4月26日 (火) 08:19 (UTC)
- 報告既にコメント依頼開始時に依頼者により利用者‐会話:イザヤにてコメント依頼提出の連絡はすんでいましたが、コメント場所へのリンク提示はなされていませんでした。イザヤさんの編集キャリアからすると、形式的なことにすぎないとは思いますが、只今ご案内したことを一応報告しておきます。--ジャムリン 2011年4月26日 (火) 20:12 (UTC)
(コメント)一応こちらも機能されているようなので・・・:別のコメント依頼にも書きましたが・・私も、ノート:聖絶でのやりとりからちょっとこれは駄目だろう、という考えに傾きつつあります。編集合戦をある意味当然としているとしか解釈できない返答であり、ブロック依頼の提出には、出すかどうかについては賛成しますし、依頼自体についても今のままなら賛成票を投じてもかまいません。--Koon16000 2011年5月4日 (水) 06:22 (UTC)
ブロック依頼には賛成。イザヤ様の聖絶観は、ていうか記事は、福音派バイアスでも字引記事書いてそれっきりですから、 それこそ「イザヤの名前の利用者」はwikipediaとしては聖絶だか破門だかアナテマの対象でしょう。 で前の聖絶の項にあった岩波委員会訳聖書によると文には、「昔のイスラエルの人は別にジェノサイドやってたわけではない へーレムは人殺しではない」と書かれているのに、上記参照(ヘイトスピーチのように見えましたごめんなさいと謝っておきます)です。
以下雑多なことになりますが、1どこかのばか者がwikiを調べもせずに岩波委員会訳聖書や、カナン神話の神にリンク張らなかったりしたら張ってあげてください。2いや、「イザヤが沸く」前まで(以降はまともな編集が行われだしている。なんかすげーありがたいぞイザヤさん)の処女と憑依の項は酷かった。処女はもう、福音派バイアスっていう「書いてる人まともで真面目なんだろう」というようなものでなくて、絶対人道上倫理上あれぽい人が書いてる「××記事」だった。しかもその主執筆の人が、例えば「はいこれ(ニクダーがアレなへーレムを挙げる)とこれ(ニクダーがソレなへレムを挙げる)ちなみにぐぐるとこんな感じ(日本語発音でヘーレムがン万件ヒットする旨を挙げる)はい違いますね」とか見たいな事の人道上ちょっと版やっていたから、まともな編集ができなかったらしい。イザヤさん勇気あるなぁ。--江本亨進 2011年5月5日 (木) 04:28 (UTC)
依頼者のコメント
編集まとめ
編集 終了対象者が1ヶ月ブロックとなりましたので終了とします。--220.100.53.139 2011年5月26日 (木) 06:55 (UTC)
- コメント依頼とブロック依頼は別物です。ブロック依頼でも、まだコメント依頼で議論が尽くされていないとのコメントもあり、問題点が解決されたか否かは、むしろブロック明けの被依頼者の言動を見てからでないと判断できないものと思われます。また総括や管理者の終了宣言も来ておりませんし、ブロック依頼を締めた管理者は被依頼者も関わった編集合戦による保護解除依頼で[12]と、コメントしております。--以上の署名の無いコメントは、ジャムリン(会話・投稿記録)さんによるものです。2011年5月26日 (木) 07:21 (UTC)以上の署名補完は220.100.57.96 2011年5月29日 (日) 15:35 (UTC)によるものです。--ジャムリン 2011年5月29日 (日) 16:29 (UTC)
- 総括・終了宣言がされるという保証は誰によって為されているんですか?--219.111.90.239 2011年5月29日 (日) 15:40 (UTC)
- 保証以前にコメントに参加してもいないIPユーザー(あるいは非ログイン状態で)が、他の参加者に諮るとなくこともな、依頼者によるコメントアウト記述を無視して総括もせずに、ことさら急いで締めなければならない理由は無いのではないかと思われます。そうした過程を経ずに早急に終了せねばならないような事情が有るのでしょうか?--ジャムリン 2011年5月29日 (日) 16:29 (UTC)
- 総括・終了宣言がされるという保証は誰によって為されているんですか?--219.111.90.239 2011年5月29日 (日) 15:40 (UTC)
終了提案 1ヶ月以上依頼に関する有用なコメントがありません。あと1週間程度待ち、新たな動きなき場合は、本依頼は終了としてよいかと思います。--maryaa 2011年6月17日 (金) 13:08 (UTC)
- (コメント) - 私としては終了でいいとは思っていますが、被依頼者のブロックがあと5日で明けますので、そこでまた問題行動を再発した場合に何かコメントが寄せられるかもしれません。完全に終了させるのはブロック明けから少し経ってからでも良いのではないでしょうか?--Koon16000 2011年6月19日 (日) 13:29 (UTC)
終了 あれから約1ヶ月経ちましたが、被依頼者は投稿ブロック前からウィキブレイクを宣言されて以来活動がないこともあり、本依頼は役目を終えたと判断し終了と致します。もしまた依頼を要すると判断された場合、新たに立項いただければと存じます。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。--maryaa 2011年7月15日 (金) 13:48 (UTC)