鷹栖館

富山県砺波市にある中世居館遺跡。

鷹栖館(たかのすやかた/たかのすのたて[2])、または小倉殿館跡(おぐらどのやかたあと)・庄官屋敷(しょうかんやしき)は、富山県砺波市鷹栖[注釈 1]にあった日本の城(城館)。とやま城郭カードNo.79[3][4]一向一揆に属した土豪・小倉六右衛門が、明応年間(1492年-1501年)頃から居住したと伝える。 

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鷹栖館
富山県
別名 小倉殿館跡、庄官屋敷
城郭構造 平城(方形居館)
天守構造 なし
築城主 小倉六右衛門?
築城年 明応年間(1492年-1501年)?
主な城主 小倉六右衛門
廃城年 永禄9年(1566年)?
遺構 なし(埋没)
指定文化財 未指定
登録文化財 未登録
埋蔵文化財
包蔵地番号
県No.208090[1]
再建造物 なし
位置 北緯36度37分18.1秒 東経136度55分30.8秒 / 北緯36.621694度 東経136.925222度 / 36.621694; 136.925222座標: 北緯36度37分18.1秒 東経136度55分30.8秒 / 北緯36.621694度 東経136.925222度 / 36.621694; 136.925222
地図
鷹栖館の位置(富山県内)
鷹栖館
鷹栖館
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概要

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典型的な散居村で知られ、小矢部川庄川により形成された扇状地沖積地が広がる砺波平野の低地に立地する。現代の圃場整備事業以前は地籍図からも城館の区割りが確認できたが、現在は直線的な水田と化し、地表面では遺構が確認できない。この場所は古くから「ロッキョモンづくり」と呼ばれており、小倉六右衛門の名に因むと考えられている。地籍図から、で囲まれた方形の居館であったと推定されている[5]

屋敷主の小倉六右衛門は、明応年間(1492年-1501年)に上杉氏により「中の名」「中の明」と言う土地を与えられた人物と伝えられ、浄土真宗勝満寺の有力門徒であったという。永禄9年(1566年)に一向一揆勢と対立する木舟城石黒成綱の攻撃を受け、勝満寺とともに炎上したと伝わる[5]

なお、当遺跡の北約1.5キロメートルに位置する小倉の土居跡は、六右衛門の子孫・小倉孫左衛門の居館とされる[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ もとの礪波郡(1896年から西礪波、1948年から林村と共に東礪波鷹栖村(鷹栖地区・不動島地区)、現在の砺波市大字鷹栖上島にあたる。鷹栖小学校などの所在地で、神島地区を挟んで鷹栖出地区がある。

出典

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  1. ^ 富山県GISサイト(埋蔵文化財地図)富山県公式HP
  2. ^ 鷹栖公民館・中明 1962 p,16
  3. ^ 「とやま城郭カード第二弾が完成しました!」砺波市公式HP
  4. ^ 「とやま城郭カード一覧(第二弾)」砺波市公式HP
  5. ^ a b 砺波市教育委員会 2005 p.24
  6. ^ 砺波市教育委員会 2005 p.23

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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