青野藩
青野藩(あおのはん)は、美濃国不破郡青野(現在の岐阜県大垣市青野町[1])を居所として、江戸時代前期にごく短期間存在した藩。1682年、当地の領主であった稲葉正休が若年寄に就任し、加増を受けて大名に列した。しかしその2年後の1684年、正休は大老堀田正俊殺害事件を起こし、自らも殺害されたために廃藩となった。
歴史
編集稲葉正休は、稲葉正成の孫にあたる人物で[2]、父は稲葉正吉(正成の十男)である[3]。「青野藩」は2年で消滅した短命の藩であるが、正吉の兄にあたる大身旗本・稲葉正次(正成の二男)に与えられた知行地(青野領)をもとに成立しており、青野村は青野藩の廃藩まで、稲葉家によって3代70年近くにわたり知行された。
前史
編集青野領主稲葉家および堀田家関連系図 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元和4年(1618年)、稲葉正次[注釈 2]が召し出されて徳川秀忠に仕えた際、「美濃国青野において」5000石を与えられた[5]。この5000石の領地は、美濃国西部に位置する不破郡青野周辺のほか、美濃国中部の加茂郡にも分散して所在していた(#領地節参照)。
寛永5年(1628年)5月、正次は38歳で死去した[4]。嗣子の正能は幼少(3歳)であったため[4]、正成の要望によって[3]、正次の異母弟[注釈 3]の稲葉正吉(11歳)が青野領5000石を継ぐこととなった[4][注釈 4]。正吉はのちに書院番頭となるが[3]、駿府在番中の明暦2年(1656年)7月に家臣らによって殺害されている[3][注釈 5]。
明暦2年(1656年)12月、稲葉正休が家を相続することが認められた[3]。正休は小姓組番頭・書院番頭を歴任して近習(側衆)に進み[3]、天和元年(1681年)7月に2000石を加増された[3]。
立藩から廃藩まで
編集天和2年(1682年)3月、正休は若年寄に就任した[3]。同年8月、5000石を加増されて、合計1万2000石を領する大名となった[3]。これにより、青野藩が立藩されたと見なされる[9]。
貞享元年(1684年)8月28日、正休は江戸城内で大老堀田正俊[注釈 6]を刺殺し、居合わせた老中大久保忠朝らによって正休も殺害された[3][1]。これによって稲葉家は絶家[1][注釈 7]、青野藩は廃藩となった[9][1]。
青野藩の廃藩後、青野村は幕府領となり、明和7年(1770年)以後は大垣藩の預かり地となった[5]。
歴代藩主
編集1万2000石。譜代。
領地
編集領地の分布
編集『不破郡史』(1926年)が引く「元和年中一国帳」によれば、元和4年(1618年)に稲葉正次が初めて5000石を与えられた際の領地は、加茂郡6か村約1650石(深萱村[注釈 8]・下古井村(一部)[注釈 9]・水戸野村[注釈 10]・西田原村[注釈 11]・和泉村[注釈 12]・小原村(一部)[注釈 13])、不破郡6か村約3350石(府中村[注釈 14]・新井村[注釈 15]・大谷村(青墓村)[注釈 16]・青野村・野上村[注釈 17]・笠毛村[注釈 18])であった[21]。
『不破郡史』は、稲葉正休が加増された7000石の領地の所在は不明であるとしている[22]。
不破郡
編集青野村には美濃国分寺が所在し[5]、村内を中山道が通過している(垂井宿 - 赤坂宿間)[5]。青野周辺は古代以来の要地で、美濃国府(現在の不破郡垂井町府中)や、東山道青墓宿(青野町の北隣に青墓町の地名が残る)[23][18]が置かれ、一帯は「青野原」と呼ばれた(南北朝時代の青野原の戦いの舞台として知られる)。
稲葉家の屋敷(陣屋)跡は、「本丸」という小字名とともに伝えられた[24]。大正末年の『不破郡史』編纂時点において、屋敷の周囲に巡らせていた堀が残っており[25]、「俗名稲葉石見守塔」などと記された石塔が立てられていた[26](石塔は現存[24])。1981年には青野町自治会によって「稲葉石見守正休公屋敷跡」の碑が建てられた[24]。
青墓の円興寺は「青野城主」稲葉氏の菩提寺であったという[27]。また、稲葉正吉の兄の増周という僧侶[注釈 19]が寛文3年(1663年)に青野に来住し[注釈 20]、解脱寺という寺(真言宗[5])を創建した[28]。ただしその後、解脱寺は廃寺となっている[5]。青野の教覚寺(真宗大谷派)は稲葉正吉が再建に助力したという寺で[29]、領主であった稲葉氏の位牌が安置されているほか[5]、稲葉一族(正吉・正則・正休)が解脱寺の増周に送った書簡が伝えられており[28]、教覚寺門前には「稲葉石見守正休公碑」がある[30][31][29]。
稲葉正休は、領地の村々の農業に関心を寄せ、溜池などの水利施設を設けて、勧農に努めた領主であったと伝えられる[32]。昼飯池(大垣市
堀田正俊殺害事件の「真相」は不明であるが[注釈 21]、世間の同情は正休に向けられたといい[34]、「正休は天下のため、自らの命と1万2000石を賭して、専横のふるまいを見せる正俊を討った」とする理解がある[25]。「稲葉石見守正休公屋敷跡」の碑文はその理解に基づいて遺徳を偲ぶものとなっている[24][35]、教覚寺門前の「稲葉石見守正休公碑」の碑文も、事件について同種の理解を記しているが、正休を善政を布いて領民にも慕われた名君として顕彰している[29]。
大垣市にある稲葉北・稲葉東・稲葉西という町名(稲葉団地が所在する)は、青野町・
加茂郡
編集加茂郡深萱村(現在の岐阜県加茂郡坂祝町
脚注
編集注釈
編集- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 正成の先妻(稲葉重通の娘)の子[4]。稲葉正成の家の家督は、異母弟の稲葉正勝(生母は春日局)が継いだ[4]。
- ^ 生母は、春日局との離縁後に正成が娶った山内康豊の娘[6]。
- ^ 正次の遺児である正能と正定の兄弟は正吉の家で養われた[4][7]。寛永12年(1635年)、前年に没した伯父・正勝の生前の要望により、稲葉正則(正勝の子、小田原藩主)の領地であった下野国真岡領内において新田合計5000石が兄弟に分知された(正能に3000石、正定に2000石)[4][7]。
- ^ 正吉を殺害したのは家臣の安藤甚五左衛門と松永喜内という者で、「男色の事」が原因という[3]。安藤らは正吉を自殺に見せかけたが、将軍徳川家綱が調査を指示して犯行が露見し、安藤らは8月に処刑された[8]。
- ^ 稲葉正休と堀田正俊は親族である。正俊の父である堀田正盛と稲葉正休が従兄弟(正盛の母が稲葉正成の娘)であり、正休は正俊よりも6歳年下ながら正俊の叔従父(いとこおじ)という関係にあたる。正俊の正室は稲葉正則(稲葉正成と春日局の子である稲葉正勝の子。すなわち正休の従兄)の娘で、正俊は春日局の養子になっている。
- ^ 『寛政譜』によれば、正休は正室(土屋数直の娘)との間に男子1人を設けているが、この男子は早世している[3]。
- ^ 現在の坂祝町深萱[10]。
- ^ 現在の美濃加茂市古井町下古井か[11]。
- ^ 現在の白川町水戸野[12]。
- ^ 現在の関市西田原[13]。
- ^ 現在の白川町和泉[14]。
- ^ 現在の白川町河岐の小原地区[15]。
- ^ 現在の垂井町府中[16]
- ^ 現在の垂井町新井か。『角川日本地名大辞典』には稲葉氏が領主であったとは記されていない[17]。
- ^ 現在の大垣市青墓町付近[18]。
- ^ 現在の関ケ原町野上[19]
- ^ 現在の大垣市桧町の笠毛地区[20]。
- ^ 『寛政譜』には、増周に相当する人物の記載はない。山城国石清水八幡宮の岩本坊の僧になっていたという[26]。
- ^ 『不破郡史』には「寛文三年に正吉の知行所たる本郡青野に来り」とある[26]。ただし寛文3年(1663年)は正吉の死後で、正休の代になっている。
- ^ たとえば「コトバンク」所収の辞典類はさまざまな説を紹介している[33]。
出典
編集- ^ a b c d 『藩と城下町の事典』, p. 310.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.188。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』巻第六百十「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.206。
- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第六百十「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.202。
- ^ a b c d e f g “青野村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月6日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.189。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百十「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.204-205。
- ^ “安藤甚五左衛門”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年2月6日閲覧。
- ^ a b “青野藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月6日閲覧。
- ^ a b c “深萱村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月6日閲覧。
- ^ “下古井村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ “水戸野村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ “西田原村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ “和泉村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ “小原村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ “府中村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ “新井村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ a b “青墓村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月6日閲覧。
- ^ “野上村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ “笠毛村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ 『不破郡史 上巻』, pp. 680–681.
- ^ 『不破郡史 上巻』, p. 681.
- ^ “青墓(古代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月6日閲覧。
- ^ a b c d “青野城跡(大垣市)”. 鬼丸のブログ (2016年1月12日). 2023年2月6日閲覧。石碑・石塔とその周辺状況の写真および碑文が掲載されている。
- ^ a b 『不破郡史 上巻』, p. 684.
- ^ a b c 『不破郡史 上巻』, p. 688.
- ^ “第三十二番札所 篠尾山 円興寺”. 西美濃三十三霊場. 西美濃三十三霊場. 2023年2月7日閲覧。
- ^ a b 『不破郡史 上巻』, pp. 688–689.
- ^ a b c “青野城主 稲葉石見守正休公 略歴”. Monunento. 2023年2月6日閲覧。。石碑の碑文の写真が掲載されている。
- ^ “国分寺跡(旧中山道を歩く 269)”. 中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く) (2011年9月24日). 2023年2月6日閲覧。碑の周辺状況についての写真が掲載されている。
- ^ “法雲山教覺寺(大垣市)”. 鬼丸のブログ (2016年1月14日). 2023年2月6日閲覧。。石碑およびその周辺状況の写真が掲載されている。
- ^ a b 岐阜県農地整備課 2013, 5/11.
- ^ “稲葉正休”. コトバンク. 2023年2月8日閲覧。
- ^ “稲葉正休”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2023年2月8日閲覧。
- ^ “美濃青野城”. 城郭放浪記. 2023年2月6日閲覧。石碑写真および碑文が掲載されている。
- ^ a b “稲葉北”. 角川日本地名大辞典. 2023年2月8日閲覧。
- ^ a b c “稲葉正休寄進状”. 坂祝町. 2023年2月7日閲覧。
- ^ “十二社神社”. 岐阜県神社検索. 岐阜県神社庁. 2023年2月7日閲覧。
参考文献
編集- 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。
- 岐阜県農地整備課『農業用水の歴史を訪ねて』岐阜県、2013年 。
- 岐阜県不破郡教育会編『不破郡史 上巻』不破郡教育会、1926年 。