青木氏 (地下家)
青木氏(あおきし)は、平安時代から江戸時代にかけての地下家。
青木氏 | |
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(家紋) | |
本姓 | 蘇我氏流宗岡朝臣 |
家祖 | 宗岡生行 |
種別 | 地下家 |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 | 山城国 |
著名な人物 | 宗岡生行 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
編集青木氏の本姓は宗岡氏で、元慶元年(877年)に石川木村が先祖の名(蘇我石川)をもって子孫の氏の名称とするのでは、諱を避けることができず(避諱)、死後に生前の実名を忌んで口にしない風習に反するとして、宗岳朝臣姓に改姓したのが始まりである[1][2]。
青木という名字は、近江国甲賀郡出身で宗岡生行の実父の青木以栄に由来しており、『寛政重修諸家譜』によると、近江国甲賀郡の青木氏は元は源姓上山氏であったものの、青木家頼が同国青木荘を知行したことで青木氏を名乗るようになったという[3]。
召使を務めた青木氏は、平安時代末期の宗岡包延[注釈 1]を祖とする。包延からは
重清[注釈 2] | |||||
兼延[注釈 3] | |||||
吉兼[注釈 4] | |||||
兼次[注釈 5] | |||||
宗職[注釈 6] | |||||
重吉[注釈 7] | |||||
行知[注釈 8] | |||||
行助[注釈 9] | |||||
行継 | |||||
行言[注釈 10] | |||||
行寛[注釈 11] | |||||
行仲[注釈 12] | |||||
行宣[注釈 13] | |||||
行為[注釈 14] | |||||
廉行[注釈 15] | |||||
生行[注釈 16] | |||||
(名不詳) | |||||
行富[注釈 17] | |||||
庸行[注釈 18] | |||||
行篤[注釈 19] | |||||
行昌[注釈 20] | |||||
行考[注釈 21] | |||||
行徳[注釈 22] | |||||
行春[注釈 23] | |||||
行賢[注釈 24] | |||||
行一[注釈 25] | |||||
行春[注釈 26] | |||||
行文[注釈 27] | |||||
行信[注釈 28] | |||||
行誠[注釈 29] | |||||
行恭[注釈 30] | |||||
と続いた[4]。
召使副使を務めた青木氏は
宗岡生行 | |||||
亮行 | |||||
利行 | |||||
季行 | |||||
頼行 | |||||
秋行 | |||||
政行 | |||||
行褒 | |||||
行有 | |||||
行敬 | |||||
行修 | |||||
行敦 | |||||
行孝 | |||||
と続いた[5]。 文殿を務めた青木氏は宗岡生行の次男・宗岡生時が祖で、
生時 | |||||
時行 | |||||
直行[注釈 31] | |||||
行昭[注釈 32] | |||||
行定[注釈 33] | |||||
行親[注釈 34] | |||||
行和 | |||||
寿行 | |||||
行忠[注釈 35] | |||||
行純 | |||||
行方 | |||||
と続いた[6]。 史生を務めた青木氏は宗岡生行の三男・宗岡行時が祖で、
行時 | |||||
生道[注釈 36] | |||||
信行[注釈 37] | |||||
重行 | |||||
行本 | |||||
行弘[注釈 38] | |||||
行古 | |||||
行房[注釈 39] | |||||
行光 | |||||
と続いた[7]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 建久8年(1197年)に上召使として見える
- ^ 久寿年間
- ^ 治承年間
- ^ 養安年間
- ^ 建保年間
- ^ 延慶年間
- ^ 康永〜元徳年間
- ^ 重吉の次男、貞和年間
- ^ 重吉の末子、貞和年間
- ^ 行助の次男、明徳年間
- ^ 行継の子、応永年間
- ^ 応永年間
- ^ 文明〜享禄年間
- ^ 永正〜慶長年間
- ^ 青木藤左衛門以栄の子、母は行為の女、永禄〜文禄年間
- ^ 青木藤左衛門以栄の次男、母は行為の女、元亀〜文禄年間
- ^ 寛永〜元禄年間
- ^ 寛文〜享保年間
- ^ 元禄〜享保年間
- ^ 足立木工進の子で庸行の養子、元禄〜享保年間
- ^ 井上三右衛門の子で庸行の養子、元禄〜安永年間
- ^ 母は庸行の女、享保〜宝暦年間
- ^ 父は行考、母は庸行の女、元文〜天明年間
- ^ 養子、実父不明、宝暦〜天明年間
- ^ 行春の養子、実父不明、宝暦〜寛政年間
- ^ 父は行考、母は庸行の女、元文〜天明年間
- ^ 行一の子、寛政〜文化年間
- ^ 今出川家諸大夫川口左衛門権大尉源正秀の子で行一の養子、寛政〜文政年間
- ^ 母は行一の女、文化〜弘化年間
- ^ 天保〜嘉永年間
- ^ 須栗信定の三男で時行の養子となった。母は生時の娘で生行の甥にあたる
- ^ 須栗信定の次男で時行の養子となった。母は生時の娘で生行の甥にあたる
- ^ 直行の子
- ^ 直行の次男
- ^ 行和の子
- ^ 文殿宗岡生時の子
- ^ 須栗信定の次男で生時の養子となった後に家督を継承、母は生時の娘で生行の甥にあたる
- ^ 養子で実父は不明
- ^ 養子で実父は不明
- ^ 生行の外孫
出典
編集- ^ 『日本三代実録』元慶元年12月27日条
- ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
- ^ 『寛政重修諸家譜[1]』
- ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[2]』(日本古典全集刊行会、1937年)
- ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[3]』(日本古典全集刊行会、1937年)
- ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[4]』(日本古典全集刊行会、1937年)
- ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[5]』(日本古典全集刊行会、1937年)
- ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[6]』(日本古典全集刊行会、1937年)