青山幸正
青山 幸正(あおやま ゆきまさ)は、江戸時代前期の旗本・寄合。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和6年(1620年) |
死没 | 貞享3年2月11日(1686年3月5日) |
官位 | 信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家光、家綱、綱吉 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 青山幸成 |
兄弟 |
幸利、幸通、幸正、幸高、堀親昌継室、 水谷勝宗正室、松平信久正室 |
妻 | 大炊御門経孝娘 |
子 | 幸豊、宮崎重清室 |
生涯
編集元和6年(1620年)、譜代大名青山幸成の三男として誕生した。父・幸成は寛永20年(1643年)に死去する前に次男・幸通、三男・幸正、四男・幸高にそれぞれ3000石、2000石、1000石を分与して青山三分家を創設し、2月16日に死去した。
家督を継いだ長男・幸利は遺言を守り、弟に領地を分与した。幸正は、摂津菟原・武庫・川辺郡内2,000石を分知され、別家を創設した。