遼州
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概要
編集596年(開皇16年)、隋により遼州が設置された。605年(大業元年)に廃止され、その管轄区域は并州に移管された[1]。
620年(武徳3年)、唐により并州の楽平・和順・平城・石艾の4県を分割して遼州が設置された。州治は楽平県に置かれた。623年(武徳6年)、遼山県に州治が移された。625年(武徳8年)、遼州は箕州と改称された。712年(先天元年)、儀州と改称された。742年(天宝元年)、儀州は楽平郡と改称された。758年(乾元元年)、楽平郡は再び儀州と改称された。883年(中和3年)、儀州は再び遼州と改称された。遼州は河東道に属し、遼山・楡社・和順・平城の4県を管轄した[2]。
1074年(熙寧7年)、北宋により遼州は廃止され、和順・平城の2県は鎮に降格し、遼山県は平定軍に編入された。1085年(元豊8年)、再び遼州が置かれた。1086年(元祐元年)、鎮に降格していたところは再び県に昇格した。遼州は河東路に属し、遼山・楡社・和順・平城の4県を管轄した[3]。
金のとき、遼州は河東南路に属し、遼山・楡社・和順・儀城の4県と平城鎮と黄沢関を管轄した[4]。
元のとき、遼州は晋寧路に属し、遼山・楡社・和順の3県を管轄した[5]。
1369年(洪武2年)、明により遼州は山西等処行中書省に属した。1376年(洪武9年)、遼州は山西承宣布政使司に属した。遼州は楡社・和順の2県を管轄した[6]。