西川里喜代
日本舞踊家
この記事は広告・宣伝活動のような記述内容になっています。 (2022年8月) |
この記事の主題はウィキペディアにおける人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。 (2022年8月) |
西川 里喜代(にしかわ りきよ、1908年(明治41年)1月13日 - 1988年(昭和63年)11月28日)は、名古屋西川流舞踊家。本名、下方たき子。愛知県名古屋市出身。
来歴
編集1908年、名古屋市で生まれる。名古屋市立白川尋常小学校卒業。母・初代西川里喜代から踊り、長唄、清元、常磐津を教わる。1927年、初代里喜代が亡くなり、西川石松に師事する。1931年2月、23歳で名古屋西川流名取りになり、二代目里喜代を継ぐ。1年後に免状を受ける(名取試験は25歳以上で、合格してもすぐに師匠になれず、素行や人格等を1年間見るという決まりが戦前まであった)。1945年、第1回名古屋をどりに出演し、38回まで連続出演した。舞踊会「にしき会」を主催したり、中京五流舞踊公演で立役、女形をこなしたり、二世西川鯉三郎が東京都で主催した「鯉風会」にも出演した。1985年12月、「喜寿に舞う」と題して初めてのリサイタルを開いた。1986年、三重県津市の舞踊会で転倒し、足に大怪我を負うが半年後には舞台にカムバックを果たす。1988年11月18日と19日「にしき会」を二日間開催し、長唄老松と清元保名の素踊りで健在ぶりをアピールしたが、11月28日、名古屋市の自宅で心不全で亡くなる。享年80。
二代目西川里喜代の孫も名古屋市を中心に日本舞踊を指導し、二代目が主催した「にしき会」を継承している。弟子には「里喜」の字を名前を付けている。
受賞歴
編集- 名古屋演劇ペンクラブ賞
- 名古屋市芸術賞特賞 1983年
参考資料
編集- 北条秀司監修『西川鯉三郎』(淡公社、1970年)
- 名古屋をどりプログラム